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製織工程

ジャカード

西陣織はジャカードという機器を織機の一番上に据えて織る「紋織物」が主体です。

革命をもたらしたのは明治5年です。

今から150年も前、千年の都の地位に安住していた京都は、突然うららかな眠りから荒々しく揺り起こされた。
明治3年3月の東京遷都で天皇はじめ公郷諸候ことごとく東京に居を移し、京都はもぬけの殻の状態に陥ったのである。残された京都市民は茫然自失、なすすべを知らなかった。

当時京都の第一の産業は西陣の絹織物-とくに紋織物は平安の昔から禁裏や将軍家の需要を満たし政治権力の庇護を受けて栄えていた。 御一新で西陣は一夜にして庇護も需要も失ってしまったのである。

そこで京都府は不景気の西陣を立ち直らせるため、新政府から交付された十五万円の勧業資金のうち三万二千円を西陣へ貸与した。この金額は圧倒的に多額だった。
この金を織工、三万余戸の引立てに当てたが、立て直しには近代産業としての再出発のため、西洋の力織機導入が絶対必要条件となった。
当時西洋では、七十年前にフランスのJ・M・ジャカール(Joseph Marie Jacquard)が一人力織機の発明に成功していた。
このジャカール・メカニークを西陣に導入するため、佐倉常七、井上伊兵衛、吉田忠七を代表としてフランスのリヨンに送った。時は明治五年十一月のことである。

片道五十数日を要する船の旅、片言のフランス語も解さぬ異国での筆舌に尽くせぬ辛苦の修行は翌年十二月まで続いた。日本政府と京都府は洋式織機二十台を購入し、技術を会得した佐倉と井上は帰国したが、吉田は研究のためさらに五ヶ月リヨンに滞在し、翌七年二月フランスを発った。フランス郵船ニール号で明日は横浜に入港という前夜、伊豆沖で強風のため座礁沈没した。九十三名の乗員、乗客のうち生存者わずか三名、その中に吉田忠七の名はなかった。

現在、日本の紋織物に使用される織機はジャカール・メカニークであり、日本に最初に輸入されたのは西陣である。

織機の各部の名称のうち、たったひとつ漢字表記されないものがある。ヨコ糸が通ったあと、組織を締めるために打ち込まれる「バッタン」という部分。これはフランス語のままで、日本語のギッタンバッタンという擬態語に不思議と似ていたためだ。

そしてジャカードと呼ばれる機器は、もうお気づきでしょ?ジャカールの英語読みなのです。

それまでの織機は「空引機」といい1台の織機に通常3人ほどの職人がいました。

それがジャカードの出現で1織機1名の織り手で織れる革命をもたらしました。

 

伊豆沖に沈んだニール号の海底調査を取材したTV番組があったと知ったときには時すでに遅く、色々調べたら京都出身の作家・田村嘉子氏の小説「海底の機」を参考にしたものだったらしかった。

早速、小説を手に入れ読み耽り、ファンレターを出すと、あろうことか返事を頂いた。しかもお会いして色々お話まで伺えた。

お話を参考にリヨンへ飛びました。

クロワ・ルース広場(Placede la Croix-Rousse)にジャカール(Jacqarrd)像があった。

大革命まではリヨン地方を治める役所だった背の高い門構えの建造物は1864年に改装され織物博物館となった。

30室に収められた絹織物のコレクションは世界でも類を見ない。

西陣からの3人の伝習性も見たはずである。

館内に当然ジャカール・メカニークもあった。

 

西陣では読めない人もない専門用語「空引機」「綜絖」「筬」「杼」

「そらひきばた」「そうこう」「おさ」「ひ」他で使うこともありませんよね。

 

伊豆沖で遭難したニール号の生存者はたった3人ですが、実はもっと多くの人が岸に向かって泳いできたそうです。岸から心配して多くの住民が手招きで「こっちこっち」をしたと聞く。

不幸にも日本の「こっちこっち」は西洋の「バイバイ」と同じ仕草のため、上陸しては危険という知らせと勘違いして陸に辿り着けなかった人も大勢いたと聞いて悲しくなりました。

 

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