お火焚き饅頭。
通常、紅白のこし餡の蒸し饅頭、焼印は「火焔宝珠」。
「火をおこす」に掛けて「おこし」。
その年の新米で作られ、三角は火を表していると言われています。柚子が練り込まれていて、これが実に上品。クドさが無く、ほんのり香る感じで、あっさりした風味です。
あとは焼きミカン。
火鉢が生活から消えてからまず焼かなくなりましたよね。
平安時代、火を焚いてミカンを供え、魑魅魍魎を祓った「道饗祭」の名残りとされています。お下がりのミカンを食べると、1年間は風邪をひかないとされます。
今年は数十年ぶり、ちょー久々にありつけました。
懐かしい気持ちになります。
暖かい1週間でした。明け方はちと寒いですが。。
上着なしで街を歩くと、いよいよ秋の風も立ちそうな。。
本格的な紅葉は来週からの冷え込みを待たないと。。
京の11月といえば「お千度」「七五三」とあと「お火焚き」でしょうか。
お火焚きは平安時代から続く宮中行事の新嘗祭が江戸時代に民間に広まったという説や、竈の神様に感謝するためなど由来は諸説あり、融合してきた面もあるかもしれません。「おしたけ」と言う人もいるようです。
古来より火は生活に不可欠なもので、人間は火を使うことができる唯一の生き物。
人は燃え上がる火の威力に神様の姿を見出し、神聖なものとしてきました。
京都には五山の送り火や愛宕詣など、火に対する信仰が息づいています。
御火焚祭もそのひとつで、火焚串(護摩木)に願いを書き込み、焚き上げる神事が現代に継承されています。神事の後に神様のお下がりとして配られる御火焚饅頭・焼ミカン・三角おこしを食べると、1年の無病息災や火難除けなどのご利益があると云われます。
昔は火を扱う西陣の「染屋」さんも工場で「お火焚き」をし、そのお下がりを配ってくれるのが楽しみでした。
町内会の行事として氏神さんの「お火焚き」に詣る町内もあったようですが、うちの町内は同じ月の「お千度」と重なるせいか無かったです。
時代が進み、火の代わりにガスや電気が普及してるし、今じゃお下がりを配る町内もほぼ無いようです。町内会より個人意識しか無い人が増えてきたのか、町内の一人一人が願いを書いた火焚串を燃やして、炎の中にミカンを投げ入れて焼いたミカンを食べると中風封じや風邪薬になるというのは時代にそぐわないのでしょうか。
ところがまだまだ信心の篤い人は多く、神社の祭事に参加する人の数は意外と多いのが、京都の不思議なところ。
「お火焚き」は11月から12月にかけて行われ、神社によって日程が異なります。
今日はは水火天神さんのお火焚きへ。
用意された玉串が参加者の半数ほど足りませんでした。
延長元年(923)醍醐天皇の勅願により菅原道真の神霊を祀ったと伝わる天満宮で水難火難除けの神として知られる。
この天満宮の由緒書には、『洛陽一条上る下り松の霊地に雨水雷火の難を消除の守護神として菅公を祭る為に延暦寺の尊意僧正に勅命ありし日の本最初の天満宮の勧請の最初なり』とあり、日本初の天満宮らしいです。菅公(道真)が降り立ったという登天石が境内にある。
都名所図会では、元の水火天神は興聖寺の東、本法寺の北西あたりと推定される。
右下が堀川通り。
北上した突き当りが堀川頭、水火天満宮です。
昔は堀川通りはここまででした。
建物疎開とは、第二次世界大戦において焼夷弾による攻撃を受けた際の市街地延焼防止を目的とし、国による家屋等の取り壊しである。内務省の指揮により京都府が執行し、京都市は戦時中の疎開跡地の管理を担い。戦後は疎開跡地の整理とともに都市計画上必要な土地は買収し堀川通、御池通等の拡幅整備を行った。
この堀川拡張をもろにかぶっての移転だったことが分かる。
現・水火天満宮は、平安前期の貧病人や孤児等の救済施設「悲田院」趾です。
水火天満宮は(扇町)天神公園の一角にちっちゃく佇んでいるように見えます。
公園も天満宮も堀川通に面し、公園は小川通まで南は御霊前通を挟み本法寺です。
それにしても私の住まう成逸学区には、斎宮趾で「社」のつく町名が多かったり水火天神の「天神」のつく町名があったりと、由緒を知らない人が聞くと神がかっていてちと怖いかもしれませんね。