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紫式部と雲林院

当主のひとりごと (BLOG) 2024.10.12

紫野」と見れば京都人なら誰でも読めますが、難読地名に入るかもしれない。

他府県のお得意先から振込がある際、電話で振込ができず問合せが多々あった。

「むらさきの」支店ですけどって答えると、「あ」と仰る。訓読なんですよ。

地名の由来は、紫が高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であったことからとも言われています。地名の由来は、紫が高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であったことからとも言われています紫が高貴な色とされ、昔は天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であったことからとも言われています。)

紫は高貴な色とされ、天皇の離宮が営まれる風光明媚な地であったためとも云う。

船岡山東麓にある大徳寺。北大路を挟み南側に塔外(そと)塔頭(たっちゅう)雲林院」はある。

臨済宗大徳寺派大本山大徳寺の塔頭で、狭い敷地に観音堂一()だけの本堂のない小さな寺。

十一面千手観世音菩薩を本尊として、大徳寺開山の大燈国師木像、中興の江西和尚の木像が安置され法燈を継いでいる。

 

大徳寺は鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超が開創した寺。

ところが雲林院の歴史は遥かに古く、『枕草子』『源氏物語』『山槐記』『今昔物語』『伊勢物語』『平家物語』など平安時代の文学に登場する。

 

雲林院の藤田寛蹊住職の昨年のインタビューがあります。

雲林院と言うのは、創建は大体(西暦)900年前後頃ですね。淳和天皇の離宮って言いますけれども、この淳和天皇の塔所(たっしょ)(=墓所)ですね。というのは、京都の西大路四条に高大院ていうお寺があるんです。確か高大院やったと思うんですけど、そこに淳和天皇の宮があったと言われるんですね。その離宮として、雲林院が創建されたというのが最初です。それが代々の天皇家ですね、淳和・仁明というふうに天皇家に譲り渡されていくわけです。その過程で最初は天皇の離宮、休む所、つまり別荘ですね。ここら辺は桜の名所、紅葉の名所というような感じで昔から歌にも多く詠まれていたんですね。

 もとの雲林院と言うのは、このお寺のあるところとちょっと離れているんですね。(注 現在の堀川通りに面した場所)100mくらいの所に今、新しいマンションが建っていますけれども、そこに発掘調査がありまして、その場所が、雲林院の客殿があった場所やと言う結果が出たんですね。そこからは、井戸とか柱の跡とか土器とか、平安時代のものがずいぶん出土したんですよ。」

「平安時代に、平安文化の中心であった『大鏡』という書物にありますけれども、そのときに雲林院の菩提講、菩提講と言うのは、観世音菩薩信仰の、来世に極楽浄土に生まれる為に法華経を唱えて、皆で集まる、一つの宗教行事ですね。そういう法要があったわけです。雲林院ではこれが盛んで、また有名であったわけですね。それで、この菩提講という名前の発祥とでも言いましょうか。そういう名前がつけられたのは、雲林院が最初だと言いましょうか。そう聞いております。」

「敷地の一辺が、300m、もっとあるかもしれないですね。こういう釣殿やら池やらある屋敷が建ってた訳ですから。この辺は今でも雲林院町と呼ばれているんですけれども、こちら、大徳寺がある大徳寺町ですが、ここも雲林院の管理地だったのを、開山の大燈国師が譲り受けたのですから、大分広かったんでしょうね。」

 

「順番に行きますと、雲林院はもとは天皇家の離宮、その次に天台宗の寺院、その後に禅宗の臨済宗に変わったんですね。天台宗と言うのは、僧正遍昭を得た時に元慶寺の子院になって、お寺の機能をはじめた訳ですね。この当時、雲林院の寺域は大変広かったんですが、今の大徳寺と同じように、雲林院と言う一つのお寺の中に、塔頭がたくさんあったようですね。その一つが「白毫院」と言って、先ほど発掘調査の話が出た客殿跡の並び、堀川通りに面したところなんですが、小野篁や紫式部のお墓があります。」

「遍昭もそうですし、西行とも関係がありますね。時々お寺に訪ねてこられる方で、『ここに西行の植えた桜はまだ残っていますか』と聞かれる方もありますけど、桜はありますけれど、西行が植えたものではないでしょうね。

 このお寺は、歴史はとても古いんですが、必ずしも順風満帆に発展していった訳ではないんです。時代の流れもあるんでしょうが、結局は庇護が必要なんですね。ここのお寺と言うのは、実際問題それがなかったですから、時代が降るに連れて大変荒れ果ててしまっていたんですね。

 大徳寺は1315年、宗峯妙超(大燈国師)が、花園天皇から雲林院の土地を賜わったのですね。これは古文書にも出ています。恐らく雲林院もその時に、自然に大燈国師に引き継がれたのだろうと私は推測しています。というのも、古文書とか、そういった書き付けは一切残っていないので分からないんですね。焼けたのかどうしたのか、とにかく雲林院に関したものは一切ないので、平安時代の源氏物語とか大鏡などからの推測しかないんですよ。

 荒れてはいたけれども、応仁の乱の頃までは建物も残っていたようで、大徳寺の弧蓬庵という塔頭がありますね、そこの客殿に金の松の屏風があるんですが、それは雲林院の元の客殿のものを持っていったと言われています。それは記録にちゃんと残っています。ここからは推測なんですが、襖だけ持って行っているんじゃなくて、雲林院の当時あった建物をそのまま弧蓬庵に移築したんちゃうかと言われていますけどね。襖絵に関しては、大徳寺の古文書に残っていますから間違いないんですけどもね。

 ここは住職が居なかった時期というのが相当長いですから。ここのお寺を再興したのが1706年ですね。それまではずっと無住だったわけですね。

 それが、江戸時代ですね、二九一世の江西宗寛和尚という方が、『大徳寺発祥の場である雲林院を放っておくのは良くない』ということで、観音堂を再建し、また大徳寺開山の大燈国師の像を、写しですが雲林院に下さいまして、そこでやっと再興されたわけです。が、その時も、江西和尚も再建はされましたけれども、兼務住職と言う形でまた別にお寺を持っておられましたんでね、ここにちゃんと住職と言う形でいらっしゃたかということは分からないんです。

 その後は、四代までは住職が居たんですが、その後はまた無住になってしまいまして…そのまま明治、大正、昭和と来て、今のような形で庫裏が出来てここに住職が住むようになったんは、戦後ですね。私の親父が最初で、私が二代目です。」

 

遺跡というのは掘らないと出てこない。なぜ?

塵も積もればだと ずぅ~~っとそう思っていた。

落葉が積もり腐葉土が地表を覆うことはあるが、ごく表層の数cmに過ぎない。

にも拘らず、掘らないと遺跡が出てこないのは、多くの場合、畑として使われ耕すとき地表の土がかき混ぜられ、この部分を取らないと遺跡に到達しない。

つまり台地の上などで掘り出される遺跡の多くは、壊されずに残った遺跡の下半分の残骸でしかないのだ。

ただ平安京より千年以上の歴史を誇る京都の場合、2m以上の地層の堆積もある。

実はその殆どが盛り土なのである。

現在のようにゴミ収集車のない時代、壊れた建物を地表面に積み整地する。

 

つまり、遺跡は埋まってゆくのではなく、埋められて来たのである。

 

 

 

発掘調査は『パークシティ北大路』建設前の2000年夏に行われ敷地の北西部から直径約30mの園池とこれに臨んで建てられた掘立柱建物跡や井戸などが検出された。紫式部墓所も、真珠庵にある式部産湯の井戸も想定敷地外になる。おそらく当時は塀すら無かったのだろう。川島織物工場跡地だったので、遺跡が地中深くない。

パークシティ北大路のガレージ入口にも発掘調査の掲示板があるが、シルバー地に白の壺垂れ模様のゴージャスなものだから細い黒の線が読みづらい。

 

今回発見された掘立柱の建物は、菅原道真の編纂した『類聚国史(るいじゅうこくし)』(892)にある、天皇は在位中しばしば当地を訪れ、釣台(つりだい)にのぼって遊魚を鑑賞したり、漢詩を詠んだりしたと記されており、この掘立柱建物が釣台を想起させる。

 

 

 

 

源氏物語に「雲林院」が登場するのは、巻十 賢木(さかき

源氏は、父帝の亡くなった後にも、藤壺の中宮への思いを絶ち難く、自分に逢ってくれない中宮に、思い知らさせるために参内せず雲林院にこもります。

また、この巻で源氏と当代の帝の寵妃・朧月夜との密通が発覚します。

 

 大将の君は宮をいと恋しう思ひきこえたまへど あさましき御心のほどを時々は思ひ知るさまにも見せたてまつらむと念じつつ過ぐしたまふに人悪ろくつれづれに思さるれば秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり

  故母御息所の御兄の律師の籠もりたまへる坊にて法文など読み行なひせむと思して二三日おはするにあはれなること多かり

 紅葉やうやう色づきわたりて秋の野のいとなまめきたるなど見たまひて故里も忘れぬべく思さる

法師ばらの才ある限り召し出でて論議せさせて聞こしめさせたまふ

所からにいとど世の中の常なさを思し明かしてもなほ憂き人しもぞと思し出でらるるおし明け方の月影に法師ばらの閼伽たてまつるとてからからと鳴らしつつ菊の花濃き薄き紅葉など折り散らしたるもはかなげなれど

  このかたのいとなみはこの世もつれづれならず後の世はた頼もしげなり

さもあぢきなき身をもて悩むかななど、思し続けたまふ

律師のいと尊き声にて 念仏衆生摂取不捨 とうちのべて行なひたまへるはいとうらやましければなぞやと思しなるにまづ姫君の心にかかりて思ひ出でられたまふぞいと悪ろき心なるや

訳)

 大将の君は、東宮をたいそう恋しくお思い申し上げになっているが、「情けないほど冷たいお心のほどを、時々は、お悟りになるようにお仕向け申そう」と、じっと堪えながらお過ごしなさるが、体裁が悪く、所在なく思われなさるので、秋の野も御覧になるついでに、雲林院に参詣なさった。

  「故母御息所(母・桐壺更衣)の兄上の律師(僧官の一つ。僧都の次)が籠もっていらっしゃる坊で、法文などを読み、勤行をしよう」 とお思いになって、二、三日いらっしゃると、心打たれる事柄が多かった。

 紅葉がだんだん一面に色づいてきて、秋の野がとても優美な様子などを御覧になって、邸のことなども忘れてしまいそうに思われなさる。法師たちで、学才のある者ばかりを召し寄せて、論議させてお聞きあそばす。場所柄のせいで、ますます世の中の無常を夜を明かしてお考えになっても、やはり、「つれない人こそ、恋しく思われる」と、思い出さずにはいらっしゃれない明け方の月の光に、法師たちが閼伽棚にお供え申そうとして、からからと鳴らしながら、菊の花、濃い薄い紅葉など、折って散らしてあるのも、些細なことのようだが、

  「この方面のお勤めは、この世の所在なさの慰めになり、また来世も頼もしげである。それに引き比べ、つまらない身の上を持 紅葉がだんだん一面に色づいてきて、秋の野がとても優美な様子などを御覧になって、邸のことなども忘れてしまいそうに思われなさる。法師たちで、学才のある者ばかりを召し寄せて、論議させてお聞きあそばす。場所柄のせいで、ますます世の中の無常を夜を明かしてお考えになっても、やはり、「つれない人こそ、恋しく思われる」と、思い出さずにはいらっしゃれない明け方の月の光に、法師たちが閼伽棚にお供え申そうとして、からからと鳴らしながら、菊の花、濃い薄い紅葉など、折って散らしてあるのも、些細なことのようだが、

  「この方面のお勤めは、この世の所在なさの慰めになり、また来世も頼もしげである。それに引き比べ、つまらない身の上を持余していることよ」

  などと、お思い続けなさる。律師が、とても尊い声で、

  「念仏衆生摂取不捨」

  と、声を引き延ばして読経なさっているのは、とても羨ましいので、「どうして自分は」とお考えになると、まず、姫君が心にかかって思い出されなさるのは、まことに未練がましい悪い心であるよ。

 

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