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当主のひとりごと (BLOG) 2024.04.08

堀川北大路下がる西側に島津製作所があります。我が家から徒歩5分ほど。

その敷地内に平安時代の有名人の二基の墳丘が並ぶ。

訪れるのは桜の時期がいいと思っています。

島津の塀は雲林院の遺構の名残か築地塀だったのを、コロナ禍に耐震のため敷地が垣間見える塀に変えられました。

 

一つは紫式部の墓です。

南北朝時代、四辻善成(よつつじよしなり)が将軍・足利義詮(よしあきら)の命により著した「源氏物語」注釈書で20巻からなる河海抄(かかいしょう)に

「式部墓所在雲林院白毫院南小野篁墓の西なり

宇治宝蔵日記にも紫野に雲林院有よし見えたり」

この記載が最も有名で、墳丘は小ささから想像して火葬塚かもしれません。

紫式部は長元四年(1031)五十九歳ほどで死去したといわれております。

 

もう一基の小野篁(おののたかむら)。

平安初期の公卿で文人で身長が六尺二寸(約188cm、当時の平均身長が159.5〜163.5cmほど)の巨漢で天皇の教師役の侍読も務めた人。小倉百人一首の参議篁。

威圧感のせいか逸話伝説が多く、昼間は朝廷で官吏を、夜は冥府で閻魔大王の下で裁判の補佐をしていたというもの。

この地に紫式部の墓の隣にあるのは、愛欲を描いた咎で地獄に堕ちた式部を篁が閻魔大王にとりなしたという伝説に基づくものらしい。

しかし墓の信憑性は極めて高い。

宇治拾遺物語巻三 小野篁広才事」にこんな話があります。

今は昔、嵯峨天皇の御代(みよ)、小野篁という人がいた。

「無悪善」と書かれた札が何者かにより内裏に立てられた。

嵯峨天皇は漢籍に優れている小野篁を早速呼び出された。

嵯峨天皇が「これを読め」と言うので、篁は答えました。
「読むことは読みましょう。しかし畏れ多いこと、あえて申し上げますまい。」

それを聞いて天皇は仰せになりました。
「かまわず申せ。」

しかたなく、篁は答えました。
「さがなくてよからん」

「すなわち、御君を呪い申しているのです。」

「悪」という文字は「さが」という読みがあるので

篁は、「悪」は「嵯峨」を表していると考えたのです。

無悪善、すなわち、悪(嵯峨)無(なくて)善(よからん)

篁の答えを聞いた嵯峨天皇が言いました。
「お前以外に誰が書こうか。」
「それだから申し上げますまいと申したのです。」

篁がそう答えると、天皇は
「それでは何でも書いたものなら読めるというのだな。」

「何でもお読み申し上げます。」

篁は答えました。

すると天皇は「子」という文字を十二個書いて「これを読め」と仰せになった。

子子子子子子

子子子子子子

篁は、読みました。
「猫の子、子猫、獅子の子、子獅子」

「子」の読みは、音が「シ」訓が「コ」と「ネ」だから。 

これを聞いた嵯峨天皇は微笑み、

篁は何のおとがめもなくすんだのでした。

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