1月20日は「玉の輿の日」です。
帰国後、菩提寺・東福寺通天橋前にて
明治37年(1904)1月20日、 京都・祇園の芸妓のお雪がアメリカの大富豪、モルガン財閥の創始者の甥ジョージ・モルガンと日本初の国際結婚をしたことから「玉の輿の日」になった といわれています。
「玉の輿」の語源自体は、貴人の乗る美しい輿に乗り嫁入りすることです。
徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院が、西陣の八百屋の娘で通称「玉」と伝えられ、徳川 三代将軍家光の側室となり、後に綱吉の生母として従一位という女性の最高位にまで昇り詰めた事から「玉の輿」の語源とも云われている。
『徳川実紀』によれば、桂昌院の父は二条光平の家司である北小路太郎兵衛宗正だが、実際の出身はもっと低い身分であるという噂が生前からあった。
寛永16年(1639)、家光の側室・お万の方の部屋子として仕え、後に春日局の目にとまり「秋野」という候名で指導を受けるようになる。長じて将軍付き御中臈となり家光に見初められ側室となり、正保3年(1646)1月に綱吉を産む。
慶安4年(1651)、家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。
4代将軍・家綱の死後、嗣子がないため、5代将軍候補は曲折を経て、上州館林二十五万石藩主となっていた徳松と異母兄の甲府二十五万石藩主綱重の二人に絞られたが、老中堀田正俊がお玉の子・徳松を推し延宝8年(1680)に綱吉が将軍職に就くと、お玉も江戸城三之丸へ入る。
桂昌院は京都の智積院の金堂を建立したり、応仁の乱で一部が焼失した善峯寺、金蔵寺、南禅寺、乙訓寺、清涼寺、西明寺、真如堂などの再建・再興に尽力し、とりわけ西陣への愛郷の念と共に信心にも厚く、荒廃していた今宮神社社殿の造営に務め、祭礼も往時のような盛況を取り戻したと伝わる。
このように後世に多大な仏教遺産を残しました。
また桂昌院は京都西陣の出身であるため、豪奢な衣装を西陣から多く取り寄せた。
それが、後に幕府の財政を圧迫させたと言われ、奢侈禁止令が発令されると京都から友禅職人を呼び寄せ、江戸友禅を成立させました。
「疋田絞り」を、友禅型を用いて「絞り」そっくりに描いた小袖など、工夫が凝らされています。
桂昌院は今でいう景気刺激、公共投資のようなもので、仏教を中心とした宗教心を柱に庶民文化を建て直すことの必要性を示したもので、文化的積極財政と評価されるものです。
また、桂昌院や綱吉の権力を象徴する最も有名な話として「生類憐れみの令」があります。
綱吉に嫡子がないのを心配した桂昌院が、僧隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる」との言葉を信じ、綱吉に訴えたことから始まった悪政とされてきました。
最近の説では、本来将軍になるはずもない勉学ひとすじの堅物だった綱吉が、犬猫動物はもとより人まで試し切りの対象となっていた殺伐とした江戸の世相を憂い、儒教の精神で変革しようとしたもの、日本初の動物愛護令との再評価もなされています。
実際、生類憐れみの令で厳罰された例はほとんど見当たらず、綱吉や桂昌院、柳沢吉保、隆光の悪政の評価は、ほとんどが次の六代将軍のブレーンであった新井白石が前代の悪評を流布し、六代将軍の権威を高めるために作り上げた話との説が有力です。
桂昌院は、貞享元年(1684)11月に従三位を、元禄15年(1702)2月には女性最高位の従一位の官位と、藤原光子という名前を賜る。
宝永2年(1705)6月に79歳で没。墓所は芝の増上寺、遺髪塚が京都市西京区の善峯寺に「桂昌院廟」としてある。
昭和33年〜35年(1960)に芝増上寺で徳川将軍家の墓地が改葬された際、遺骨の調査を担当した鈴木尚博士によれば、桂昌院の血液型はA型で四肢骨から推定した身長は146.8cm。当時の平均身長よりやや長身、丸顔で下顔部が狭く鼻の秀でた美人であったという。
世界中いつもシンデレラストーリーは人気があります。
それに伴い良からぬデマも多々出現してしまいます。
「玉の輿」は桂昌院お玉さんに由来するというのは、俗説に過ぎないようです。
ただ、京都に於いてお玉さんは地元に多大な貢献をしたという絶大な憧れと人気のある人であるのは間違いない。
大徳寺塔頭・総見院では、「玉の輿」の玉とは桂昌院のことと語り伝えているし、今宮神社の名物「あぶり餅」は玉のような餅を食べ、玉(桂昌院)のようなご利益をあやかろうとしたという言い伝えが今でも生き続けています。
奇しくも、モルガンお雪さんが晩年隠棲したお家は、大徳寺の東向かい、今宮神社は大徳寺の西むかいというのは、とても面白いです。
『大奥』は、1968年に製作された連続時代劇テレビドラマ。関西テレビ会社創立10周年記念作品として東映とともに製作し、1968年4月6日から1969年3月29日まで、毎週土曜22:30 – 23:25の時間帯で放送された全52話。カラー放送。
東映の岡田茂プロデューサー(のちの同社社長)が企画・製作した1967年の映画『大奥㊙︎物語』から、エロ部分を薄め、大奥での女たちの激しい権力争いを中心とした内容に変更しテレビドラマ化したもの。映画とテレビが連動したのも、これが最初といわれるが、関西テレビから「題名は㊙はやめて『大奥』だけにしてくれ」と言われ、タイトルは『大奥』と変更された。「大奥」とタイトルの冠されたテレビドラマは本作が初。テレビドラマ『大奥』は初めて取り上げた「女性時代劇」であり、最高視聴率30%を突破する人気シリーズとなり、視聴者の大きな共感を得たことで、今に通じる『大奥』の世界観を作ったといわれる。