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玉の輿の日

当主のひとりごと (BLOG) 2024.01.19

我が家のすぐ近くに大徳寺がある。

今は立派な大徳寺の土塀も私の幼い頃は部分的に壊れており、近所の子供達はそこから寺に出入りして遊んでいた。

壊れていたのは、画面左手前のお地蔵さんの祠の辺りです。

右側の角の家の2軒向こうのお家に本日の主役は隠棲されていました。現在は改築されているので面影はありません。

当時、こんなところに似つかわしくない洗練されたご婦人の姿が時折見かけられました。黒い日傘をさした洋装で。

 

当時、陽光を反射するのは白。光を吸収する黒なんぞ論外。

黒い日傘のご婦人は71歳の時、高野(たかの)にあるカトリック高野教会でキリスト教の洗礼を受けました。洗礼名はテレジア。

同じ北大路の西の突き当たり左大文字の麓にあるカトリック衣笠教会のモダンな聖堂は創建後8年の昭和33年(1958)完成され彼女の寄付によると没後明かされた。現在はホールとして使用されていますが、聖堂としては京都初のコンクリートの建物です。

「伝説の人」とは実在したかどうかも怪しい場合もありますが、お姿を知る人がまだ大勢いる、ある女性のお話です。

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寺町の刀剣商・平助の娘・雪は、祇園甲部でお茶屋兼置屋「加藤楼」を営む姉の縁で14歳で芸妓となる。源氏名は「雪香」、歌舞に優れ胡弓を得意とした。

雪香は毎年恒例の「都をどり」で舞を披露していました。

紙吹雪や桜の景色などの舞台演出を観て感激し大喜びしたアメリカ人がいた。数日後、置屋へ行き胡弓をひき、ひたすら客をもてなす雪香の優しさに彼はすっかり惚れ込んでしまいました。

 

 

 

ジョージ・モルガン(George Denison Morgan)、30歳。

アメリカの3大銀行・ロックフェラー、カーネギーと並ぶ金融大財閥J・P・Morganの甥との出会い、求婚から雪の波瀾万丈の半生は始まります。

ジョージは恋人と別れたばかりの失意の旅行中に日本に立寄り、お雪が結婚を承諾するまでの4年間に3度来日している。

 

当時20歳の雪には京都帝大出の10歳年上の苦学生・川上俊介(のち浪速銀行東京支店長)という恋人がおり、学費や生活費の面倒をお雪が見ていたようですが、モルガン求婚騒動が新聞に掲載されたために破局したと言われていますがお雪が口外していないので真偽はわからない。

明治37年(1904)1月20日、当時4万円(現在の8億円)という莫大な身請金によりモルガンに引き取られ、横浜で結婚。結婚は小林米珂(日本に帰化したイギリス人法律家)を媒酌人に横浜領事館で行われました。日本初の国際結婚です。この日を「玉の輿の日」とされる所以です。

お雪はジョージとアメリカに渡るが、排日法によりアメリカへの帰化は許可されなかった。

明治38年(1905)、二人は一時帰国するが、「金に目がくらんだ女」などとマスコミに囃し立てられ世間の好奇の目は変わらなかった。

南禅寺橋にモルガンの別荘があり、日米の国旗を揚げ2年ほど暮らした後、渡仏してパリに移り、現地の社交界で大変な評判を呼んだ。

 

 

 

お雪はジャポニズムの影響の残るアメリカやフランスの社交界で遺憾無くその器量を発揮し、日本女性が国際社会に通用することを知らしめることになりました。

“Gion”や”Geisya-girl”という言葉を世界的にしたのもこの人である。

大正4年(915)34歳の時、夫ジョージが44歳の若さでスペインで病死。

お雪はモルガン家を頼りにアメリカに向かいますが、第一次世界大戦中で排日運動はさらに激化、遺産相続を巡る夫の一族との裁判に勝ち、60万ドルという莫大な資金を得るが米国籍を剥奪され無国籍となるも、仕方なく住み慣れたパリに戻り悠々自適の生活を送る。

大正5年(1916)、新しい恋人の陸軍士官で言語学者のサンデュルフ・タンダール(SandulpheTandart)とマルセイユに移り同棲するが、昭和6年(1931)、タンダールは心臓麻痺で死去。

以後、ニースの別荘で暮らす。

昭和13年(1938)第二次世界大戦勃発を前に欧州が不穏化。

家族の世話をするため京都に帰る。

戦局が逼迫するとモルガン家からの送金も途絶え、さらに国籍の無くなったままのお雪は特高警察に目をつけられ軍政下で財産を差し押さえられる。

夫ジョージの祖国との激しい戦争。お雪は夫の友人を通じて京都には爆撃をしないよう働きかけたと伝わります。モルガン財閥は当時のアメリカ大統領のスポンサーとしてアメリカ社会に影響力を持つ一族です。少なくとも祇園町ではお雪のお陰で京都は助かったというのが常識となっています。

日本敗戦後、遺産相続権を回復。カトリック信者として慎ましく暮らしたお雪は昭和38年(1963)、急性肺炎により死去。81歳。

お雪の墓は2つあります。

左大文字山のキリスト教墓地と、もう一つは加藤家の菩提寺・東福寺塔頭の同聚院。

三回忌の際、パリ市から京都市に白バラの献花があった。

世界屈指のバラの名門・メイアン氏がお雪を慕って開発した新種、その名も「ユキサン」。高貴な香りと上品な花弁をつけるそのバラは今も同聚院の土塀前で鑑賞できます。

 

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逸話として有名なのが、「鷲鼻の毛唐」からの身請け話を断るつもりで「加藤楼」は四万円と吹いた。

数日後、「四万円の貞操」というセンセーショナルな大見出しで、新聞にお雪の顔写真入りで身請けの記事が派手に書き立てられた。

金額を当事者は誰も語ったことはない。

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1951年2月6日、帝劇コミックオペラ(後に帝劇ミュージカルスと改称)第1回作品「モルガンお雪」が幕を開けた。

脚本は後に取締役にまでなった菊田一夫

お雪を演じたのは、宝塚歌劇団在籍のまま異例の外部出演を許された越路吹雪であった。

越路はお雪と劇中劇のレヴューの主役の二役でした。

初日を迎えてすぐ東京は大雪に見舞われる。

当時の帝劇社長でこの舞台の実質的なプロデューサーでもあった秦豊吉氏は59歳、越路はあと何日かで27歳になろうというところだった。

時代もの現代物を問わず秦氏が拘ったのは日本ネタという一点である。

この路線を貫き通せば必ずブロードウェイから買いが入るというのが口癖だったそうだ。

 

それにしても芝居のモデルが実在する中、今では名誉毀損や差別用語など、さぞかし問題がある中での舞台公演は凄すぎます。

 

 

 

 

 

 

 

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