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とらやの虎

当主のひとりごと (BLOG) 2024.09.18

東京では「とらやの羊羹」って絶対的なようですね。

「とらや」さんは明治2年(1869)、東京遷都にともない、天皇にお供して、京都から東京に進出したのです。一家全員、東京へご引越しされたと聞きます。

 

だから、京都では東京に移ってしまった印象が強く東京ほどの威力には欠けます。

 

東京の開店のとき、ディスプレイのセンスに江戸っ子が仰天したと聞いてます。

都が東京に移るまでは京都が都だったので、文化人は京都に集中していたはず。

 

この虎、誰の作かご存知でしょうか。

 

富岡鉄斎(とみおかてっさい)なんですよ。

 

富岡鉄斎は天保7年(1837)生まれで大正13年(1924)没の文人画家、儒学者、教員。享年89歳。今年は没後100年になります。

世に「最後の文人画家」と称えられる鉄斎は、幕末、京都の商家の生まれで、近世都市の商人道徳を説いた石門心学を中心に、儒学・陽明学、国学・神道、仏教等の諸学を広く学びながら同時に、南宗画、大和絵等をはじめ多様な流派の絵画も独学し、深い学識に裏付けられた豊かな画業を展開した。

良い絵を描くためには「万巻の書を読み、万里の路を行く」ことが必要であるという先人の教えを徹底して守ろうとし、何を描くにもまずは対象の研究に努め、北海道から鹿児島まで全国を旅して各地の勝景を探った。そうして胸中に思い描かれた理想の山水を表出し、人間の理想を説いた鉄斎の絵画は、画壇の巨匠たちから敬われ、京・大阪の町の人々に広く親しまれただけではなく、むしろ新世代の青年画家たちからもその表現の自由闊達で大胆な新しさで注目され、生前から今日まで国内外で高く評価されてきました。

学問に熱心な家に生まれた富岡鉄斎は、幼少から読書を好み勉学に励みます。

国学や漢学を学び陽明学に傾倒、歌人や書家・画家と交流し自らも書画に親しむようになります。

鉄斎の本分は学者です。

学問に携わる者が嗜みとして描いた「文人画」は、中国・北宋時代に盛んになり、日本では江戸時代~明治期に人気を呼びました。

池大雅(いけのたいが)や、俳句で名を知られる与謝蕪村(よさのぶそん)らが有名です。

鉄斎は教員を務めたり私塾を開いたりしましたが、絵を描いて生計の助けとしていました。

鉄斎の代表作をご紹介すると
ひときわ異彩を放つ六曲一双の大きな屏風《富士山図》。

富士山も、鉄斎が描くとこうなります。

東洋のセザンヌ」と称されるのも頷けますね。

 

文机の上の丸眼鏡、右端の籠に入ってるのは補聴器。幼い頃から難聴だった。

江戸後期、文人の間では煎茶が盛んだった。

京の名工と制作し揮毫(きごう)(=毛筆で何か言葉を書くこと)した。

 

南宋画、大和絵から狩野派、琳派、大津絵に至る様々な画法を研究した鉄斎は「まだら」という言葉を好み、「人間は一色の色ではなく、いろいろな面が混ざってまだらになっているのが良い」という言葉を残しています。

 

明治14年(1881)兄の死に伴い京都を終の住処とし、私塾立命館で教員になる。

 

鉄斎は、作品を公募展に出品したり、自ら個展を開いたりはしませんでした。

友人知人のために描いたものが多く、例えば四代清水六兵衛〈水指〉、鉄斎が絵付けした六兵衛作品は多く残っている。

鉄斎の用いる墨は、1663年から今に続く書画用品・香の老舗、鳩居堂が作っており、この『雲龍図』は、鉄斎が鳩居堂の墨の使い心地を試すために描いたもの。

 

鉄斎は、虎屋の近くに居を構え、当時の支配人黒川正弘に絵の指導をするなど虎屋とは縁が深い。そうした繋がりから、鉄斎の書斎改築の際、虎屋の離れや茶室が画室となり、作品の一部は虎屋の所蔵品となった。

虎屋蔵の鉄斎作品には菓子を題材にしたものもいくつか見られ、「羅漢虎上図」は、画賛に虎屋主人の為とあり、虎に乗った羅漢を描いたもので、手に持った器に入っているのは饅頭と考えらる。現在、その図は虎屋饅頭の井籠掛紙に使用されていまする。
他にも「虎屋饅頭」と揮毫された額、「饅頭起源図」などもあり、「饅頭起源図」は『三国志』で知られる諸葛孔明が戦いの折、羊と豚の肉を皮に包んで神に祀ったという饅頭起源説をもとに描かれたもの。和漢の故事や文学への造詣が深かった鉄斎は、大陸伝来の饅頭のルーツなどにも少なからず興味をもっていたのでしょう。

 

そりゃあ江戸っ子も度肝を抜かれてしまいますね。

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