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清少納言

当主のひとりごと (BLOG) 2024.11.22

今年のNHK大河ドラマ「光る君へ」は紫式部の生涯の物語。

おそらく実際には接点のなかった清少納言が登場します。

枕草子」は中宮に忠実で明るくおもしろく知的で気が利く機知に富んだ随筆。

これがどのような状況で何のために書かれたかを考えるいい機会になりました。

1025年頃 亡くなった説もあり来年が没後千年にあたります。

 

 

清少納言が中宮・定子に仕えるようになったのは正暦4年(993)の冬頃、定子17歳、少納言が10歳ほど年上。定子が難産の末に崩御するまでの約7年に渡り教育係を務めたと伝わります。

定子という人は教養もありサロンはとても華やかに栄えた時に清少納言は参加しますが、出仕して1年半ほどで藤原道隆が43歳で病死してしまい、定子は後ろ盾を失い、その後、兄弟が流罪になってしまいショックのあまり髪をおろして出家してしまい、その後、家も火事で焼け、さらに母・貴子も亡くなる。

清少納言は、藤原道長に内通している疑いを掛けられ一時、中宮の傍から離れることを余儀なくされ、この時、枕草子を書き始めたとされています。

 

 

 

 

殿などのおはしまさで後「枕草子」

さしつどひ物など言ふも下より参る見てはふと言ひやみ放ち出でたるしきなるが見ならはず憎ければ「参れ」など度々たびたびあるおおせ言をもぐしてげに久しくなりにけるをまた宮のへんにはただあなたがたに言ひなして空言そらごとなども出で来べし

(訳)

女房たちは集まって話していても、私が(つぼね)から来るのを見ると突然話をやめて、私をのけ者にする感じだった。そんな仕打ちは初めてで憎らしかった。中宮様から何度「出てきなさい」と仰せごとがあっても聞かず、長いときが過ぎた。その間にもまた、中宮様の周りの女房たちは私を完全にあちら側の一味に仕立てて、根も葉もないまで言い出していたのだろう。

 

 

枕草子は中関白家の没落の悲劇について一才触れていない。ひたすら明るい。

なんとかして失意の底の定子を元気づけたかったのだろう。

かかる人こそは 世におはしましけれ

初めて参内し一目でその姿に感嘆した日からずっと清少納言は定子を慕い続けた。

 

第一段の「春はあけぼの」「夏は夜」「秋は夕暮れ」「冬はつとめて

先ず冒頭から読者は圧倒されてしまいます。

 

 

 

枕草子には跋文(ばつぶん)(あとがき)があります。

 

この草子 目に見え 心に思ふことを 

人やは見むとすると思ひて 

つれづれなる里居のほどに書き集めたるを

あいなう人のために便なき

いひ過ぐしもしつべきところどころもあれば

よう隠し置きたりと思ひしを

心よりほかにこそ漏り出でにけれ

 

宮の御前に内の大臣のたてまつりたまへりけるを

「これに何を書かまし

主上の御前には『史記』といふ書をなむ書かせたまへる」

などのたまはせしを

「まくらにこそは、はべらめ」と申ししかば

「さば、得てよ」とて賜はせたりしを

あやしきをこよやなにやと尽きせず

多かる紙を書き尽くさむとせしに

いとものおぼえぬ言ぞ多かるや

 

大方これは世の中にをかしき言 

人のめでたしなど思ふべき名を選り出でて

歌などをも木 草 鳥 虫をもいひ出だしたらばこそ

「思ふほどよりはわろし 心見えなり」と譏られめ

 ただ心一つにおのづから思ふ言を戯れに書きつけたれば

ものに立ちまじり

人なみなみなるべき耳をもきくべきものかはと思ひしに

「恥づかしき」なんどもぞ見る人はしたまふなれば

いとあやしうぞあるや

げにそもことわり

人の憎むを「善し」といひ 褒むるをも「悪し」と

いふ人は心のほどこそ推し量らるれ 

ただ人に見えけむぞねたき

 

左中将まだ「伊勢守」ときこえし時 里におはしたりしに

端の方なりし畳をさし出でしものは 

この草子載りて出でにけり

まどひ取り入れしかど やがて持ておはして

いと久しくありてぞ返りたりし

それより(あり)()めたるなめり
                           とぞ、本に

 

 跋文

この草子は、目で見て心に思うことを

人が見ようとするかしらと思って、

することもなく退屈な宿下がりの間に書き溜めていたのが、

あいにく人にとっては具合の悪い

言い過ぎたに違いない点も所々にあるので、

うまく隠して置いたと思ったのに、

全く思いもかけず世間に洩れてしまいました。

 

中宮さまに内の大臣(うちのおとど)(藤原伊周)が献上なされたという紙を、

中宮さまが「これに、何を書いたらいいかしら。

帝は『史記』という(ふみ)をお写しになっていらっしゃるのよ」

などと仰せになられましたので、

私は「枕でございましょう」と申し上げますと、

「それでは、そなたに取らせよう」と仰って、下されたのですが、

変なことをこれもあれもと、

とてもたくさんの紙を書き尽くそうとしたものですから、

中には全くわけのわからない言葉も沢山あるのですよ。

 

大体、これこそ世間で評判の名句とか、

みながすばらしいと思うはずのものの名を選りに選って、

和歌などでも、木・草・鳥・虫の名をも書き記してあるものですから、

「期待してたより悪い。見え透いている」と、そしられることでしょう。

ともかく私の心の中で思いつくことを、戯れに書きつけたものですから、

まともな書物に肩を並べて、

人並みの評判などを聞くはずもないと思っていましたのに、

「恐れ入ったわ」などと読む方はおっしゃるらしいので、

ほんとに妙な気がするのですよ。

まことに、それも当然なことで、

人の憎むものを「善し」と言い、褒めるものを「悪し」と

言う人はいて、心の底が推し量れるというものですわ。

私としては、ただこの草子が人に見られてしまったのが気に入らないのです。

 

左中将(源経房、清少納言が長い宿下がり中、出入りしていた数少ない一人)が、

まだ伊勢守と申しました頃、私の里にお出でになられて、

端の方にあった薄縁を差し出しましたところ、

この草子が一緒に乗って出てしまったのです。

慌てて取り込もうとしましたが、そのまま持ち帰られ、

かなり経ってから返してくれたのです。

それ以来、この草子は、世間を歩き始めたのでしょう。

と、原本に書かれてるのです。

 

最も興味深い部分は、『まくらにこそ、はべらめ』という部分です。
この言葉こそが、「枕草子」という書物の名付元だと思うのですが、「まくら」の語義については諸説あり、なお決着はみていないようです。
一つの例を示しておきましょう。
「しきたへのまくら」という歌語があるそうで、天皇が「史記」を書かせたということから連想して「まくら」となったというのです。

清少納言の言葉に、中宮は何の質問もせず、『さば、得てよ』と答えていることから、当時、『まくらにこそ、はべらめ』で十分理解できる何かがあったように思われます。さて、それが何かが「枕草子」の魅力の一つだと思います。

 

 

定子は2人の子を残して世を去った。

定子の死とともに、清少納言もまた、後宮(こうきゅう)サロンを去る。

在りし日の定子と、この世の美しいものすべてを称えた珠玉の随筆「枕草子」だけを後世に残して。

 

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