果てなく続く朱い道は異空間への入り口

秦中家の遠祖である秦伊呂具は稲を積み上げるほど裕福で、
餅を的にして矢で射たところ餅が白鳥になり飛び去って山の峰に降りた。
そこに稲が奈り生えたことから伊奈利の社号がついた。
伊侶具の子孫がこの山頂界隈の木々を引抜き大切に育てたところ、邸宅に木々が根付いた家は繁栄し、根づかない家は没落した。
と「山城国風土記」逸文には記されている。
御祭神・稲荷大神様の眷族(お使い)はきつねとされています。但し野生の狐ではなく、眷属様も大神様同様に我々の目には見えません。
そのため「白狐さん」といってあがめます。
白は透明の意です。
眷属として祀られる理由は、一説に稲荷の神が食物の神なので御饌神の「みけつ」が転じて「みけつね(三狐)」となったといわれます。

実はこの朱の千本鳥居は願い事が「通る」或いは「通った」御礼の意味から、鳥居を感謝のしるしとして奉納することが江戸時代以降に広がった結果です。現在は約1万基の鳥居がお山の参道全体に並んで立っています。

参道を上がるにつれ増えてくるのが石段。
稲荷山の頂上(標高233m)の「一ノ峰」までは およそ1300段の階段です。
なんと60階のビルに相当するらしいです。

『神衹官勘文』や『年中行事秘抄』などに引く『稲荷社禰宜祝等申状』には、
この神は、和銅年中、初めて伊奈利三ヶ峰の平処に顕坐してより、秦氏人等が禰宜・祝として春秋の祭りに仕えた
とあります。
さらに社記ー十五箇條口授伝之和解には、
元明天皇の和銅4年2月壬午の日に、深草の長者“伊呂具秦ノ公”が勅命をこうむって、三柱の神を伊奈利山の三ヶ峰に祀ったのにはじまり、その年は五穀が大いにみのり、蚕織なって天下の百姓は豊かな福を得た
と伝えています。
このように、ここ伏見・深草の里は秦氏とは極めて深いかかわりをもち、御鎮座は和銅4年(711)二月初午の日と伝承されてきました。しかしながら、信仰の起源は、これよりも更に古くさかのぼると考えられています。
深草の里に住み着いていた秦氏族は、在地の小豪族として勢力を伸ばし、皇極天皇2年(643)11月のこと、当時の宮廷において権勢をほしいままにしていた蘇我入鹿が、政敵である聖徳太子の御子・山背大兄王を亡きものにせんと斑鳩に攻めた時、王の従臣たちは、深草屯倉に逃れられるようすすめたとあります。この「屯倉」とは、朝廷および皇族の直轄領のことで、深草屯倉の運営については、在地の豪族・秦氏族の勢力に期待するところが大きかったのであろうと考えられています。深草の里に秦氏族の存在が予測できるのはたいへん興味深いことです。
平安時代初期に編集された数少ない書物の中に、『新撰姓氏録』という記録があります。これは弘仁5年(814)6月に奉られたもので、その当時近畿に住んでいた諸蕃(渡来および帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を秦氏が占めます。応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化しました。その際に金銀玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させました。天皇は、これらの絹織物は肌膚に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされています。降って雄略天皇の御代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐」という号を賜ったとあります。
近年の研究では、秦氏は朝鮮半島の新羅地方出身であろうと考えられています。ともかく、雄略天皇の御代には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でていた一方、計数に明るかったようです。このようにして渡来あるいは帰化氏族は、秦氏に限らず、当時の先進地域であった大陸および朝鮮半島の文物をわが国にもたらし、これが後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われます。例えば、記録、出納、徴税、外交事務それから文字使用を業とするのは、もっぱらこれらの氏族であったと考えられています。朝廷の渡来あるいは帰化氏族に対する処遇がよかったことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことであろうとされています。彼らはたいてい畿内の小豪族としての生活を認められ、それぞれの特技を生かした専門職の地位を与えられていたようです。