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焚火の町〜鞍馬の火祭

当主のひとりごと (BLOG) 2023.10.23

10月22日は京都三大祭「時代祭」の日です。

同じ日の夜、もう一つ趣の違う火祭があり、京都三大奇祭の一に挙げられます。

 

所は鞍馬山麓の鞍馬川沿いにひらけた集落。鞍馬の山門と考えてください。

とにかく狭い川沿いの道は群衆で埋まります。

当日午後5時以降、鞍馬さんの入口より中へは立入禁止。

由岐(ゆき)神社が鞍馬寺の山門の中にあり、由岐神社の祭なのに鞍馬の火祭と呼ばれる所以です。

由岐神社拝殿は重要文化財の割拝殿という様式で、中央に通る石段の上に樹齢800年、樹高53mの御神木大杉を仰ぎ見る。「大杉さん」と親しまれ心願成就とされる。

祭のおこりは、平安中期、平将門の乱や大地震など動乱や天変地異が相次いだため、天慶3年(940)、世の平安を願い朱雀天皇の詔で内裏に祀る由岐明神を都の北・鞍馬に遷宮することで北の鎮めとした。その時、松明・神道具などを携えた行列が十町(約1km)に及び、感激した鞍馬の民が由岐神社の霊験と儀式を後世に伝え遺そうと守ってきたのがこの祭。

大松明は大きな物で重さ100kg前後あるそうです。地元の躑躅の枝(しば)を剪定し藤蔓で束ねて各家が作成するもので、その柴の中に松の割木が豪快に突っ込んであります。

各家には提灯に火が灯され篝火が焚かれ、薪と火消し用の桶が置かれている。

こんな町全体で祭を盛り上げるところも今時珍しくなった。

祇園祭のように屏風や鎧が飾られ格子戸が開放されている。

鞍馬の日暮は山間部なのでとても早い。

午後6時「神事にまいらっしゃれ」の合図で各戸に篝火が灯される。

徳利松明を手にした幼児が街道一帯を往来した後、小・中の松明を担いだ小中高生が加わり、最後に大松明を担いだ青年らが現れる。

鞍馬太鼓が打ち鳴らされる中、「さいれーや、さいりょう!」と囃し街道を練り歩く。

 

この日は貴船より奥は交通規制が敷かれ、交通手段は叡山電車のみとなる。

夜8時は大人の男の登場する時間なのに鞍馬駅には帰りの客が大勢。

この人たち、もういいの (;゚Д゚)? 

警官の誘導に従って歩いてたら駅に来ちゃった ( °Д°)?

松明は増え続け、午後8時頃には山門前に百数十本集まる。

祭は最高潮に達し、燃え盛る炎がひしめき沿道でさえ熱い。

神輿が据えられた山門前の石段に集まった松明は「祭礼や最良!」の掛け声も一段と大きくなり次々倒され燃え上がる。

大松明を担いでいる時はいいけれど、石段に大勢で立っている間に火の粉が船頭籠手の襟元から入って火傷するらしい。

 

 

 

午後9時半頃、太鼓の合図と共に青葉の精進竹に張った注連縄を伐る儀式が行われ、松明の祭は神輿の祭へと変わります。神輿の上に鎧武者が乗り、後ろには綱がつけられ、坂や石段から急に滑り落ちないよう町の乙女達が綱を引きます。神輿に人が乗り女性が参加することも祭の異色の一つです。

この綱を引くと安産になると伝わり、多くの若い女性が綱を引きます。

神輿の先の担い棒には脚を大の字に上げてぶら下がる二人の若者。「チョッペンの儀」と云い、かつて鞍馬の成人になる儀式でした。

神輿が御旅所に戻される午前0時過ぎに祭は終わります。

 

京都の行事は日程が固定されているものが多く、休日と重なる機会は貴重。

ガイジンさんの多いこと。

立ちっぱなしでくたびれました。

土産は名物・ちりめん山椒。

 

 

志賀直哉が大正10年(1921)から翌年にかけ発表した「暗夜行路」に主人公・時任謙作が友人とこの祭を見物する後編十七の4ページに渡る描写がある。

 焚火の町を出抜けると、稍(やや)広い場所に出た。幅広い石段があって、その上に丹塗の大きい門があった。広場の両側は一杯の見物人で、その中を、褌一つに肩だけ一寸した物を着て、手甲、脚絆、草鞋(わらじ)がけに身を固めた向う鉢巻の若者達が、柴を束ねて藤蔓で巻いた大きな松明を担いで、「ちょうさ、ようさ。──ちょうさ、ようさ」こういう力ン(りきん)だ掛声をしながら、両足を踏張り、右へ左へ踉蹌(よろ)けながら上手に中心を取って歩いている。或る者は踉蹌ける風をして故(わざ)と群衆の前に火を突きつけたり、或る者は家(うち)の軒下にそれを担ぎ込んだりした。火の燃え方が弱くなり、自分の肩も苦しくなると、一ト抱え程あるその松明を不意に肩からはずし、どさりと勢よく地面へ投げ下ろす。同時に藤蔓は撥(はじ)けて柴が開き、火は急に非常な勢いで燃え上がる。若者は汗を拭き、息を入れているが、今度は又別の肩にそれを担ぐ。それも一人では迚(とて)も上げられず、傍の人から助けて貰うのである。  
 この広場を抜け、先きの通りへ入ると、其所(そこ)にはもう焚火はなく、今の松明を担いだ連中が「ちょうさ、ようさ」という掛声をして、狭い所を行き交う。子供は年相応の小さい松明を態(わざ)と重そうに踉蹌けながら担ぎ廻った。町全体が薄く烟り、気持ちのいい温もりが感ぜられる。  
 星の多い、澄み渡った秋空の下で、こう云う火祭を見る心持ちは特別だった。一ト筋の低い軒並の裏は直ぐ深い渓流になっていて、そして他方は又高い山になっていると云うような所では幾ら賑わっていると云っても、その賑かさの中には山の夜の静けさが浸透(しみとお)っていた。これが都会のあの騒がしい祭りより知らぬ者には大変よかった。そして人々も一体に真面目だった。「ちょうさ、ようさ」この掛声のほかは大声を出す者もなく、酒に酔いしれた者も見かけられなかった。しかもそれは総て男だけの祭である。

文中、祭の掛け声を「ちょうさ、ようさ」と表現していますが、今夜は明らかに「さいれーやさいりょう!」と叫んでいます。大正時代から現代までの間に掛け声が変化したとは考えにくく、作者の記憶違いかと思われます。

 

 

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