5月5日は祝日で端午の節句で、もう一つ、今宮祭の日である。我が家の氏神様は今宮神社。
数年前の台風で壊れた鳥居も修復された。
今宮祭は長保3年(1001)の紫野御霊会に始まり中世まで公の祭だったが、しばらく中絶して徳川五代将軍・綱吉の生母桂昌院が西陣の出身であったことから復活した。
鷹神輿。
京都市北区の鷹峯街道に沿った地域・鷹峯の産子(祭祀団)地域。
八角形の神輿は京都の神輿の中でも僅か。
あぐいは上京区にある安居院で、西陣成逸学区を指す。うちの学区です。
官祭としての起源をもつ故、三基とも菊の御紋が入る。
大宮とは大宮郷で、大徳寺に接してその東南部から北部にかけて位置する地域。
現在の大宮ではなく紫竹に当たる。
豊太閤の寄進によることから八角形八面の御屋根には菊の御紋四面と豊臣家の家紋・五三桐四面となっている。
総重量は鷹神輿と同じ約二屯七五〇貫。
これだけの重量の神輿は京都中を隈なく探しても他になく、重厚豪華な錺金具を備え動く文化財です。
コロナ緊急事態宣言も解け元通りに近いお出で祭になった。
かなり大規模な行列で、うちの前の社通で一旦小休止。飲み物を配ったりお稚児さんの追い付くのを待っています。
時代ははっきり変わっていて、5日のお出で祭で御旅所まで行列し、10日ほどして(以前は15日と決まっていましたが)お帰り祭まで、御旅所とその前の大宮通には数え切れないほどの屋台が並んでいました。
いろんな事情があったのでしょうが、香具師の口上なんて無形文化財だと私は思いますが見せ物小屋も来なくなり屋台も激減し、最後の砦のあぶり餅の店も出なくなり御旅所も寂れまくってしまいました。
この三基の神輿の前に「お札」が白・赤・黄色と三体戴くのに初穂料を日の丸扇に載せて維持費に充てていた習慣も、今年は二基目の赤いお札が神輿の前に来なかったのですが後列の方にも三者のお札係がいらしたので揃いました。お札も必要としない人が増えたせいでしょうか。
「苦しい時の神頼み」という言葉がありますが、頼まなくてもいい生涯を送れればこれほど立派なことはないでしょうし、祭もイベント化してしまってるとしか思えない時代ですし、他府県から移り住んでいる人もいる時代ですから、氏神様という意識も薄れていくんでしょうね。
改築前の我が家には格子戸を外して垣まで張り出す床木がずっとありました。鯖寿司やばら寿司、赤飯にご馳走を用意して身内が集まっていました。我が家は今でも身内が集いご馳走を拵えますが、同じ通りの家でも見物のいない家もあったり、鯖寿司なんて作ってないだろうとも想像できるし、何よりお札を頂戴しない家も目立つんじゃないでしょうか。
西洋の国って意外と信心深いと思うんですけどねぇ。