いよいよ五月。
京都で五月といえば、葵ですね。

上賀茂神社の北東の杜には二葉葵が群生し、訪れる人々を迎えます。

葵は古く「あふひ」と読み、「ひ」とは「神霊」神を意味し、葵とは「神と逢うこと」であり、また「逢う日」でもあるのです。御祭神降臨の際に「葵」を飾り祭りをせよとの御神託があったことから、御神紋となり社殿を飾り、神と人とを結ぶ草として古来大切に守られてきた植物でもあります。

境内では「競馬」や「葵祭」の準備のため、馬を慣らせているのでしょうか。


ならの小川から外に出て、明神川と名を変えるところに社家があります。

ここを昭和63年(1988)5月26日京都市は上賀茂伝統的建造物群保存地区と定めた。
室町時代から上賀茂神社の神官の屋敷町として東に流れる明神川を渡り町並みが形成されてきたところである。

明治維新までの旧集落は、上賀茂神社の神官と農民が集住する特殊な性格を持つ集落であった。そこで一般に社家町とよばれるようになった。明治以後は京都の近郊農村的性格を徐々に強め、社家町の性格は薄らいでいった。

明治42年(1909)

昭和22年(1947)

現在
しかし、ここ明神川沿いには今日も社家が旧来のまま連担し、他所で滅びた貴重な社家町が清々しく残っている。

主屋は敷地に奥まって建ち、切妻造・平家建・妻入の特色ある形態を備える。主屋とこれを囲む土塀、庭園、門、明神川にかかる土橋等が、独特の歴史的風致を構成している。
ご覧の通り社家町通りにはガードレールが無いので運転はちょっと怖い💦
社家町は上賀茂神社より東に伸びているので、しばらく行くと燕子花の大田神社に着きます。

大田神社の鳥居の前の路の向い側に石碑があります。

「北大路魯山人生誕地」と刻まれています。
明治16年(1883)3月23日、この北大路町に、上賀茂神社の社家・北大路清操 、とめ(社家・西池家の出身)の次男として北大路房次郎こと魯山人は生まれた。
生活は貧しく、母の不義の子であったため、由緒正しき家柄の父は恥じて、房次郎が生まれる前に入水自殺し、母も北大路家を出された。房次郎は生まれながらにして不幸を背負っていた。このことは固く封印されていたし本人も過去をほぼ語らなかった。母の乳の味も知らぬまま親戚の家をたらい回しにされる。農家に養子にも出されたが、6歳の時に竹屋町の木版師・福田武造の養子となる。10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小、新町小)を卒業し、本人は画家になるための学校に行きたかったが、家業を継がせるつもりだった養父母の猛反対にあい、京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公に出された。
15歳で当時流行の「一字書き」で次々と受賞を重ね、年少時代から非凡な才能を発揮した。
奉公を終えたあと、書家になることを志して明治36年(1903)に上京。
翌年の21歳の時、日本美術展覧会に隷書「千文字」を出品し一等賞を受賞した。書家魯山人が始まる。
2年後の明治38年(1905)、町書家・岡本可亭の内弟子となる。
書や篆刻(印章を作成すること)、刻字看板を制作し、併せて古美術と料理にも興味を持つようになった。
明治41年(1908)には中国北部を旅行、その後、朝鮮総督府に書記として勤めた。
大正14年、42歳の時、東京で「星岡茶寮」を開設し、仕入れ、調理などに卓越した技量を発揮して美食家としてもその名を世間に知らしめた。
昭和2年、44歳に星岡茶寮で用いるため、北鎌倉に「星岡窯」を築き本格的に作陶を始め、多数の優れた作品を残した。
書、篆刻、陶芸、料理など幅広い分野で人並み外れた優れた業績を残し、昭和30年、72歳の時、重要無形文化財(人間国宝)の認定を打診されたが固辞した。
美の追求に一生涯を掛けた偉大な巨人出会ったが、世間の名声には全く無頓着であった。昭和34年(1959)12月21日、76歳で横浜の地で逝去し、京都西賀茂の小谷墓地に葬られている。

一人の男がいた。
女房が去った後は独りで暮らしていた。その男はこんなことを考えた。
「まず土地を見つけることだ。よく肥えた土地を。そしてそこへ野菜を植えるのだ。毎日野菜が食べられるぞ」
けれど、男は土地を探すことをしなかった。家の中でごろごろしていた。それでも、おなかがすいてくるので、パンをかじった。
男はあくる日、こんなことを考えた。
「野菜もいいが、牛を飼うのだな。そして、豚も飼うのだな。おいしい肉が食べられるぞ」
でも、男はなにもせずにごろごろしていた。おなかがすいたので残りのパンをかじっていた。その男の頭が、なんだか少しふくれているようだ。
あくる日、男は考えた。
「女房がいなくとも、ちゃんとこうして食べていける。待て待て、自分で料理だってできるぞ。そう動きまわらなくとも、手をのばせば用事ができるような便利な台所をつくることだ。清潔な明るい台所を」
だが、男は実際はなにもしなかった。おなかがへってきたので、パンを食べようと思ったが、もうパンがなくなったので、米びつの米を生のままかじって考えた。
「待て待て、台所もいいが、それより先に、働きやすいような、身軽な服装をこしらえることが第一だな」それでも、なにもしないで、女房が部屋のすみの棚においていったりんごをかじった。
その男の頭が、少しふくれたようだ。
「そうだそうだ、果樹園を作ろう。新鮮なくだものを木からとってすぐ食べることはすばらしいぞ」
でも、男はなにもしなかった。そして米びつの米をかじった。
こうしてこの男は考えてばかりいるうちに、だんだん頭が大きくなっていった。少しも働かぬので、手や足はだんだん小さくなっていった。家の中にも、もう米もくだものもなんにも食べるものがなくなった。それでも男は考えることを止めずに、考え続けた。だんだん男の頭は大きくなって、手足や胴は小さくなっていった。
とうとう食べるものがなくなると、男は小さくなった自分の足を食べてしまった。でも、男は考えを止めなかったので、いよいよ頭が大きくなっていった。食べるものがないので、自分の胴を食べ、手を食べてしまった。
おしまいに、この男はもう食べるものがなくなって、考える頭と食べる口だけになってしまった。この男の考えることは、一つも間違ったことはなかった。ただ一つも行わなかっただけであった。世の中には、こんな頭の大きい男がたくさんいる。
わたしは、この気味のわるい男の話をときどき思う。
正しいこと、いいことを考え、間違ったことを少しもいわないひとびとがいる。そして一つも実行しない人間もいる。
料理をおいしくこしらえるコツは実行だと思う。わたしのいうことが正しいか正しくないかをまず批判していただきたい。そして、ああそのとおりだと思ったら、必ず実行していただきたい。
考えることも大切だ。聞くことも大切だ。実行することはもっと大切なことだとわたしは思う。
おいしく料理をつくりたいと思う心と、おいしい料理をつくるということは、似ているが同じではない。
わたしたちは、したいと思っても、しようと思うのはなかなかだ。しようと思っても仕上げるまでには時を必要とする。だが、したいと思っている心を、しようと決心するには一秒とかからない。まず希望を持っていただきたい。やってみたいという希望を持ったら、やりとげようと決心していただきたい。決心したならば、すみやかに始めていただきたい。むずかしいことはなにもない。やってみない先から、とてもできないと思いあきらめているひとがあまりにも多すぎはしないだろうか。
料理はいつもわれわれ日常生活とともにある。そして、そのコツも、いつもわれわれのいちばん手近にある。だが、道は遠いかも知れない。しかし、その遠い道は、いつもいちばん手近の第一歩からはじまっているのだ。


『料理の第一歩』北大路魯山人

美食家としても有名な陶芸家魯山人は、1954年にアメリカのロックフェラー財団の招きで渡米し陶芸作品の展示を行った後、南仏ヴァロリス (Vallauris)にあったピカソのアトリエを訪問した。
180cmを超える大男だった魯山人が163cmと小柄なピカソから少し離れて写ってる写真。その理由を尋ねられた魯山人は「並ぶとピカソが貧弱に見えるから離れて撮ったんだ」と言ったそうだ。
アトリエの中では同じデッサンを何枚も描き散らしてあるのを見て「ピカソは何回も同じことを繰り返すうちに頭が狂ってあのような異常な作品が生まれるのだろう」と魯山人は思い、ピカソに見せられた鉄製の彫刻作品(上の写真中央)については「全然大したものだとは思わなかった、こんなもんをいかにも傑作のように話をするのはピカソ一流のハッタリだと警戒しながら眺めた」という。「ヨーロッパではピカソのようにバシンと出るとみんな引っかかるんだね。彼は絵が下手で美がない、色が汚い、線が下手クソだ。思想の文字を書くところを絵で描いているのだろうか」いやはや天下の魯山人にかかればピカソは三流の画家に見下げられてしまう。
権威を真っ向から否定する魯山人のこうした態度は、この翌年、織部焼の重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されると頑なにこれを「固辞」した態度にも現れている。作陶について魯山人が常々口にしたのは「百年先の知己を持つ」という言葉だった。自分が今している作陶は百年先の審美眼を持った人々のため、つまり百年先の未来での評価を見据えた姿勢を貫き通した魯山人の美の「探求心」、死後60年たった今、すでに彼の作品は多くの人々に高い評価を受ける「銘品」になっている。
私は「粋人さん」という言葉をブログ中 何度も使っています。
努力は人間の大きな武器だと思います。
ですがいくら努力しても超えられない壁があります。
それをひたすら努力して超えてしまうのが「天性」の才だと思います。
凡人の前進はまだまだ足元近くの将来を観ているとしたら、天性の才を持つ人はどんどん深く奥に邁進してしまい壁を超え数十年先の世界にまで到達してしまうのだと思います。情熱や探究心の度合いが凡人以上の人だと思います。
私たち凡人とは違った景色が見える人が「粋人さん」だと思います。
最近ふと観たTVに「魯山人のかまど」という作品があります。
当初、魯山人役は京都府宇治市出身の小林薫さんの予定だったのが、藤竜也さんに変更になったり制作が大幅に遅れたそうです。

魯山人は京都人だから京言葉は小林さん向きとは思いますが、藤さんの快演とも言える出来栄えに代表作になること間違いなしと感動させられました。
世界で注目される[和食]の真髄を極めた食と美の巨人、北大路魯山人。
戦後の日本において和食の地位を芸術にまで高めたと言われる一方、傲岸不遜、傍若無人…というイメージで語られることが多くありました。しかし魯山人の本質は四季折々の食材を生かし、それを愛でながら食べる家庭料理にあったのです。北鎌倉で晩年を過ごす北大路魯山人のもとを、回顧録を書くために取材に訪れる記者の目を通して、魯山人に隠された孤独と芸術への飽くなき姿勢を描くドラマ。季節の食材を使った料理と活力あふれる魯山人の本物の器が愉しめます。
【脚本・演出】中江裕司 【料理監修】野﨑洋光 【音楽】大友良英

野﨑洋光さんは有名日本料理店「分とく山」の元総料理長。野﨑さん曰く「料理人の料理はきれい過ぎたり、凝り過ぎたりする。魯山人はそれを嫌って、素朴で美しい料理をつくったのだと思う」。晩夏のシーンでは、茄子のお尻をくりぬいてウニを載せ「夏だからホタルが光っているみたいに見えるでしょ。魯山人は自然に学べと言っているよ」と、次々に美しい料理を考案していただきました。野﨑さんのつくる魯山人の料理は、豪華さだけではなく、お米の一粒や採りたての食材を大切にしていて、ドラマ中で食べることの奥深さを示していただきました。撮影が終わると残った食材で、さっと料理をつくり、出演者、スタッフに食べさせてくれ多そうです。みんなで食べれば、よりおいしい。お腹いっぱいで幸せな日々。魯山人の言う『料理の神髄は家庭料理にある』ことを撮影中に体感できたそうです。
