植物園はアメリカの軍隊が、すまいを建てて、もちろん、日本人の入場は禁じられていたが、軍隊は立ちのいて、もとにかえることになった。
西陣の大友宗助は、植物園のなかに、好きな並木道があった。楠の並木道である。楠は大木ではないし、道も長くはないのだが、よく歩きに行ったものだ。楠の芽ぶきのころも・・・・・・。
「あの楠は、どないなってるやろ。」と、機の音のなかで思うことがあった。まさか占領軍に伐り倒されてはいまい。
宗介は植物園が、ふたたび開かれるのを待っていた。
川端康成の『古都』(きものの町)の一節です。
挿絵は小磯良平。
作品中、この並木はなんと7回も登場します。
実は私、文中の
「あの楠は、どないなってるやろ。」と、機の音のなかで思うことがあった。まさか占領軍に伐り倒されてはいまい。
宗介は植物園が、ふたたび開かれるのを待っていた。
という箇所に疑問を抱いていました。
西陣は昭和15年(1940)の「奢侈品等製造販売制限規則」により小団体(小規模組合)に加入していないと生糸が手に入らず、しかも制限があったと父から聞いていました。
機屋も小規模でしたけど。
だから「機音」って機織りなんてできた?統制の時代に。
と、訝しく思っていたのです。
昭和24年(1949)に生糸・絹織物の価格統制の解除、正絹織物の配給制度の解除、翌年の朝鮮戦争の特需により西陣織は需要拡大した。
朝日新聞に川端康成の『古都』の連載が始まったのが昭和36年(1961)10月だから、もう機織りは始まっていたと、今回調べてみて間違いではないと納得。
もしかしたら志賀直哉の『暗夜行路』みたいに作者の勘違いかと訝ったのでした💦 『古都』発表時まで植物園が占領されていたは思ってもいなかったです。
この「楠の並木道」は、今なお現存します。
京都府立植物園は、日本初の公立植物園として、大正13年(1924)年1月1日開園。
昭和21年(1946)から12年間は連合国軍に接収され閉園を余儀なくされたが、昭和36年(1961)4月に再開した。
朝日新聞の『古都』の連載が始まったのは、再開直後の同年10月から。
開園当初に植栽展示され、推定樹齢100年近い楠が北側に41本、南側に51本合計92本が、長さ200mの常緑樹の並木道を形成している。緑のトンネルに差し込む木漏れ日は美しく、京都人に「くすのき並木」と呼ばれ愛され守られてきている。