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くすのき並木〜古都

当主のひとりごと (BLOG) 2025.10.02

植物園はアメリカの軍隊が、すまいを建てて、もちろん、日本人の入場は禁じられていたが、軍隊は立ちのいて、もとにかえることになった。

西陣の大友宗助は、植物園のなかに、好きな並木道があった。楠の並木道である。楠は大木ではないし、道も長くはないのだが、よく歩きに行ったものだ。楠の芽ぶきのころも・・・・・・

「あの楠は、どないなってるやろ。」と、(はた)の音のなかで思うことがあった。まさか占領軍に()り倒されてはいまい。

宗介は植物園が、ふたたび開かれるのを待っていた。

川端康成の『古都』(きものの町)の一節です。

挿絵は小磯良平。

作品中、この並木はなんと7回も登場します。

 

実は私、文中の

「あの楠は、どないなってるやろ。」と、(はた)の音のなかで思うことがあった。まさか占領軍に()り倒されてはいまい。

宗介は植物園が、ふたたび開かれるのを待っていた。

という箇所に疑問を抱いていました。

 

西陣は昭和15年(1940)の「奢侈品(しゃしひん)等製造販売制限規則」により小団体(小規模組合)に加入していないと生糸が手に入らず、しかも制限があったと父から聞いていました。

機屋も小規模でしたけど。

 

だから「機音はたおと」って機織りなんてできた?統制の時代に。

と、(いぶか)しく思っていたのです。

 

 

昭和24年(1949)に生糸・絹織物の価格統制の解除、正絹織物の配給制度の解除、翌年の朝鮮戦争の特需により西陣織は需要拡大した。

朝日新聞に川端康成の『古都』の連載が始まったのが昭和36年(1961)10月だから、もう機織りは始まっていたと、今回調べてみて間違いではないと納得。

もしかしたら志賀直哉の『暗夜行路』みたいに作者の勘違いかと訝ったのでした💦 『古都』発表時まで植物園が占領されていたは思ってもいなかったです。

 

 

 

 

 

 

この「楠の並木道」は、今なお現存します。

京都府立植物園は、日本初の公立植物園として、大正13年(1924)年1月1日開園。

昭和21年(1946)から12年間は連合国軍に接収され閉園を余儀なくされたが、昭和36年(1961)4月に再開した。

朝日新聞の『古都』の連載が始まったのは、再開直後の同年10月から。

開園当初に植栽展示され、推定樹齢100年近い楠が北側に41本、南側に51本合計92本が、長さ200m常緑樹の並木道を形成している。緑のトンネルに差し込む木漏れ日は美しく、京都人に「くすのき並木」と呼ばれ愛され守られてきている。

 

 

 

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