陰暦5月を「雨月」とも呼びます。
日本では「怪談」の類のお話は結構好まれます。
上田秋成という人のまとめた『雨月物語』。
その序文に、この一文がある。
雨は霽れ月朦朧の夜、窓下に編成し、以て梓氏に畀ふ。
題して雨月物語と云ふ
雨がやんで月がおぼろに見える夜に編成したためこの題名になったとある。「梓」は板木。「梓氏」とは本を発行する人。出版人。書店。
「畀ふ」は与えるの意。
怪異の前触れとして、雨や月の情景が用いられています。
『雨月物語』は、映画化されています。
戦乱と欲望に翻弄される人々を、幽玄な映像美の中に描いている。海外でも映画史上の最高傑作のひとつとして高く評価されており、第14回ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞(金獅子賞は該当なし)、イタリア批評家賞ダブル受賞。第28回アカデミー賞 衣裳デザイン賞(白黒映画部門)受賞:甲斐庄楠音
ヴェネツェア国際映画祭はカンヌ国際映画祭、ベルリン国際映画祭と並ぶ三大映画祭のひとつで、最も長い歴史を持つ。
監督:溝口健二 製作:永田雅一 企画:辻久一
原作:上田秋成 脚本:川口松太郎、依田義賢
作詞:吉井勇 撮影:宮川一夫 照明:岡本健一
音楽監督:早坂文雄 補佐:斎藤一郎 録音:大谷巌
風俗考証:甲斐庄楠音 美術監督:伊藤熹朔
能楽按舞:小寺金七 陶技指導:永楽善五郎
和楽:望月太明吉社中 琵琶:梅原旭濤
編集:宮田味津三 助監督:田中徳三
製作:大映京都撮影所 配給:大映
公開:🇯🇵1953年3月26日
🇮🇹1953年8月20日 🇺🇸1954年9月7日
上映時間:96分 言語:日本語
モノクロ、スタンダード
主演は森雅之、京マチ子
この映画が製作された日本映画の黄金時代には、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)出身者が数多く映画業界で活躍していた。京都市立美術工芸学校図案科、京都市立絵画専門学校を卒業という甲斐庄楠音の衣装考証は画家時代の見識によるものものでしょう。
『雨月物語』では甲斐庄は「蝶」をモチーフとした例を多様しています。
「蝶」は東西絵画史において魂や霊魂、そして女性と結びつけられていたことから、幽霊・若狭の象徴として意図的に蝶の文様の衣装や調度を使用した可能性が高いのです。
若狭が2回目の登場で、源十郎を朽木屋敷へ案内する場面で、薄物の被衣を頭から被っています。この被衣の背中には大輪の花があしらわれ、周囲を飛ぶように蝶が散らされており、画面に蝶が明瞭に映されています。
そして朽木屋敷で源十郎が着替える場面の几帳の桐竹鳳凰文の鳥に混ざって蝶が確認できます。その几帳はさらに源十郎が酒に酔い休息する場面では、画面全体に紗の几帳の蝶文様が大きく映され、源十郎に掛けられる能装束の唐織にも蝶の文様が織られています。几帳や唐織の蝶は映り続け強く印象付けます。
映画監督・溝口健二をして「甲斐庄君が手伝ってくれると品がよくなる」と言わしめた考証家としての手腕は、厚い信頼を得ていました。
映画制作の現場では、彼は台本を読みながら絵を描き始め、物語のイメージを豊かに膨らませてそれを皆に絵として伝え、衣裳担当や美術担当の仕事を方向付けました。彼の仕事は娯楽の世界に芸術性をもたらしましたが、その目的は娯楽性の向上にありました。そんな彼のサーヴィス精神は、日本画における彼の仕事をも貫いていたのだろうと思います。
甲斐庄楠音(明治27年(1894)12月13日ー昭和53年(1978)6月16日)
京都御所の東南にあった甲斐荘(こちらが本名)氏は楠木正成末裔を自称した一族で、江戸時代に徳川光圀の推挙で4531石余の大身旗本となった裕福な武士であった。父・正秀は甲斐荘の跡継ぎ養子となったものの、総領として別に実子が生まれてしまったため、結局、正秀は甲斐荘本家から離縁され、別家となり、その慰謝料で京都の木屋町御池から河原町三条に広大な土地屋敷を入手したそうです。楠音はその父の元で経済的に恵まれた少年時代を送った。生家は京都御所の東南にあり、楠音の妹は「暮らしぶりはまったくのお大名の殿様」のようだったと回想している。楠音は幼少時から歌舞伎を好み劇場に通っていたという。京都市立絵画専門学校に通っていた大正初期には、「観劇の記録を多数のスケッチブックに残した」とも。実際、たくさんのスケッチには、甲斐庄の芝居愛がにじみ出ていた。歌舞伎の題材である「道行」などを描いた彩色画や文楽の絵もある。
加えて印象的なのは、楠音本人が演じた女形の写真の数々だ。まず、「演じる」こと自体が、甲斐荘の表現の重要な要素だったと考えてよく、おそらく俳優のように写真に撮られることも好んだのではなかろうか。甲斐荘は元々美貌の男性であり、女装も似合っていた。今で言うLGBTQに属する人物でもあり、ナルシズムが入る余地もあったかもしれない。
凡人には天才の思考は想像がつかないですね。
上田 秋成
(享保19年6月25日(1734年7月25日) – 文化6年6月27日(1809年8月8日))
江戸後期の読本作者、歌人、茶人、国学者、俳人。
本名上田東作。『雨月物語』の作者として特に知られる。
大坂曾根崎に、松尾ヲサキの私生児として生まれた。
養家嶋屋上田家の家業紙油商を継ぐ傍ら『雨月物語』などを執筆した。
明和8年(1771)、嶋屋が火災で破産し、医を学び、安永2年(1773)、加島村で医者を始めた。通称に「東作」、名に「秋成」を用いた。この頃から与謝蕪村らと付き合った。
安永5年(1776)、大坂尼崎(現在の大阪市中央区高麗橋付近)で医師として開業。『雨月物語』上梓。国学研究に熱中、安永8年(1779)『源氏物語』の注釈書『ぬば玉の巻』などを執筆。
60歳を過ぎた寛政2年(1790)左眼を失明し、妻が剃髪してからは京都に移住し、知恩院門前袋町の「うずら居の庵」と称して余生をたのしんだ旅館・八千代や南禅寺山内など居を転々としたが、友人の歌人・羽倉信美(1750~1827)邸(現梨木神社内)で没した。
上田秋成の終焉の地と甲斐荘楠音の生誕の地とが奇しくも同じ御所の東でした。