神山や 大田の沢の かきつばた
深き頼みぞ 色にみゆらむ 俊成
神山の近くにある大田の沢の燕子花
賀茂の神への深い帰依心のある人々がお祈りする恋事は
この花の色のように一途(紫一色)で
美しく可憐に見えているようだ
冷泉家の祖・藤原俊成76歳の『五社百首』の中の一首。
大田の沢は約2000㎡の敷地に約2万5千株の燕子花が群生。
人の手は加わっておらず何千年も前の姿を今に残す国の特別天然記念物。
この辺りの水はおそろしく澄んでいます。
太古の京都盆地は沼地だらけの居住や農作が困難な地。
縄文、弥生人が少しずつ住める状態の土地に整備してきた。
古墳時代から天平時代にかけ渡来人もやって来て土地改良を重ね居住者が増す。
やがて権力の中枢がヤマト王権になった頃には渡来人と日本人が混じり合い、平安京が誕生する礎を築くことになる。
大田の沢や少し離れた深泥池は数千年前の姿を今に伝える貴重な場である。
尾形光琳の国宝・燕子花図屏風は大田の沢を描いたものと言われています。
尾形光琳 ー万治元年(1658)〜享保元年(1716)ー
江戸時代の画家であり工芸家で、その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。
京の呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。
本名・惟富
通称・市之丞。
雁金屋があったのは、中立売小川付近とも、中立売智惠光院付近ともいわれる。
近江の浅井長政の家来筋であった二代目・道柏が、長政の三姉妹・淀君、京極高次夫人、徳川秀忠夫人などに引き立てられ高級呉服商になったと言われる。
三代目・宗柏の時、秀忠の娘・和子が後水尾天皇に入内してからは皇室にも出入りし、繁栄の道を辿った。宗柏は,将軍家と東福門院和子を最大の顧客に雁金屋を発展させる一方、本阿弥光悦の文化村にも参加、豊かな文化的知識と教養を身に付けた文化人として頭角を現す。
四代目・宗謙も、三人息子・藤三郎、市之丞(光琳)、権平(乾山)も能楽や絵画に親しんだ。
延宝6年(1678)、東福門院が崩御。最大の顧客を失った雁金屋は、大名貸しに手を出し回収不能が重なり没落の道を辿る。それでも父・宗謙が世を去った時、光琳が受け継いだ遺産は山里町や西ノ京の家屋敷など多額にのぼり、この遺産で遊蕩生活を始める。そのため財産も次第に減り、40代で画業に身を入れ始めた。
放埒で無責任な性格ながら、貴族的・高踏的また都会的な芸術家としてのプライドは生涯忘れずにいた。形態によるリズムを明確に意識した大画面の装飾的な屏風絵を得意とし、瀟洒な作品から水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都会的な感覚と意匠があふれている。
光琳の作品は「燕子花図屏風」に代表されるように、リズミカルな音楽的構造を持つ。単色の花の群れが、あたかも合羽刷り的な方法で繰り返し並べられるのである。これは彼以前にはなかった新しい装飾手法で、まさに近代絵画の先触れといえる。単色ゆえにリズムで躍動感を醸し出しています。
元禄14年(1701)、光琳は法橋位を獲得し、名実ともに第一級の画家となるが、この法橋位獲得は親交のあった二条綱平卿の推挙によるらしい。現存する彼の作品のほとんどが「法橋光琳」の落款を持つ。
そこにパトロンとして現れたのが,京都銀座方の役人・中村内蔵助であった。内蔵助は金銀の改鋳で巨万の富を得た成り上がり者で、町人たちの評判は良くなかったが、光琳が内蔵助の娘・お勝を5年間養育するなど、深い親交があったらしい。
光琳の描いた肖像画は生涯唯一で中村内蔵助である。
宝永元年(1704)、光琳は江戸に行く。
同時に内蔵助も江戸勤めとなり、光琳は江戸でもまた庇護を受けることになる。
宝永6年までの江戸暮しの間に光琳は度々、京へ往来している。
帰京後、画家としての名声と富を得た光琳は正徳元年(1711)、新町通二条下がるに自らの設計で理想の仕事場と住居の夢を叶えている。燕子花図屏風はその二階のアトリエで製作された。
MOA美術館に復元された光琳屋敷
宗達の「風神雷神図屏風」を模写したのもこの頃であり、やがて晩年の傑作「紅白梅図屏風」に到達する。彼の芸術は「琳派」としてその後も多くの人に引き継がれ、染織界はもちろん、あらゆる分野で不滅のものとなっている。
時代祭は歴史を遡る順の行列で、江戸時代婦人列も新しい順に和宮、蓮月、玉瀾、中村内藏助の妻、お梶、吉野太夫、出雲阿国の7名が行列します。
江戸の中期、京都の名家の妻女が、慈圓山安養寺の圓山六坊の一つ重阿弥で衣装競を行った。
現在の圓山公園の中にあったようです。
東山衣装競は、正徳3年(1713)と目される。
『翁草』「巻十享保以来見聞雑記 内蔵介の世盛り」にこう記されています。
皆々あはやと彼内室の出立を詠れば、襲帯付共に黒羽二重の両面に、下には雪の如くなる白無垢を、幾重も重ね着し、するりと乗物を出で、静に座に着けば、人々案の外にぞ有りける。扨其の外の内室我もわれもと間もなく納戸へ立て、前に増す結構成る衣装を着替る事度々也。内蔵介妻女も、其の度々に納戸へ入て、着替る所、幾度にても同じ様なる黒羽二重白無垢なり。一と通りに見る時は、などやらん座中を非に見たる様なれども、元来羽二重と云う物、和國の絹の最上にて、貴人高位の御召此の上なし。去れば晴れの會故に、羽二重の絶品を以て、衣装を多く用意せし事、蜀紅の錦に増れる能物数奇なり。且つ外々の侍女の出立を見るに、随分麗敷なれども、皆侍女相応の衣服なり。内蔵介方の侍女の衣装は、外の妻室の出立に倍して、結構なり。是光琳が物数奇にて、妻室は幾篇着替えるとも、同色の羽二重然るべし。其の代わりに侍女に随分結構なる内室の衣装を着せられよと、指圖せしとなり、去ればにや、始の程はさも無く見にしが、倩見る程、中村の出立抜群にて、一座蹴押され、自らふし目になりぬ。其の頃世上に此沙汰有りて、流石光琳が物数奇なりと美談せり。
集った妻女が待ち侘びる中、内蔵助妻女は到着した。
打掛無しの長着(一般的な着物丈)に帯姿だが、本襲の表着・下襲ともに我が国の絹の最高峰の黒地の羽二重で、その下には雪のように真っ白の白無垢を幾重にも重ね着した出で立ちであった。お色直し毎に値打の増す衣装を纏う豪商の妻女とは裏腹に、内蔵助妻女は一貫して同じ出立ちであった。そのかわり、名家の妻女の侍女はそれ相応の着物なのに対して、内蔵助妻女の侍女は衣装競の妻女の衣装より見事な衣装をお着せなさいと、光琳は指図していた。
最初は差もなく見えた衣装競も、よくよく見ているうちに内蔵助妻女の究極の単色の出立ちは抜群で大差をつけた勝利であった。
演出家としての光琳の面目躍如で、「東山の衣装競」は当時の大ニュースとしてあっという間に世間に広がり、現代の女性が有名ブランドを欲しがるように光琳描く小袖を着たい、という町方の女性はかなり多かったものと思われます。また実際呉服商にはそのような注文が殺到したものと思われる。
中村内蔵助は、寛文8年(1668)生まれ。元禄8年からの金銀改鋳で巨額の富をたくわえ、12年銀座年寄となった京随一の金満家といわれ、その生活は豪勢であった。尾形光琳との交際や三都(京、大坂、江戸)富豪の妻女衣装競で知られる。だがそれがついに将軍家からにらまれ、正徳4年(1714)幕府の緊縮政策にふれ、将軍家宣の交代のどさくさに、金銀改鋳で私服を肥やした理由で、勘定奉行萩原重秀が家禄を没収され失脚と共に、中村内蔵助も重秀と連座し、親子共々遠島追放となり、家財は競売され、その競売は四日間も続いたと言われている。あの豪華な東山衣装競後のことであった。跡地は現在の平安女学院らしい。
まさに「天国と地獄」。享保15年(1730)死去。63歳。
光琳の画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。
大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。
近代の富岡鉄斎のように、絵を描ける平面であれば紙・絹・板・着物・硯箱・焼き物など何でも自身の領分であると考えていたようであり、独自の雅かつ明快なセンスが発揮されたものが多く残されている。弟の乾山も、兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、仁清と光琳が自分の師であると書き残している


「燕子花図屏風」の左翼にも右翼にも同じ形が存在する。
これは下絵を描く時、型紙を用いている。
呉服業界では普通のことである。
家業が呉服屋の光琳にすれば普通のことである。
「紅白梅図屏風」の観世水も型紙を用いている。
呉服業界に身を置く者なら誰でも分かる日常のことである。
「雁金屋」の倅だと改めて思いました。