京都には古い歴史がある。
それゆえ京都人は明治以降にできたものは古いと思わない。
京都一古い公園・円山公園もその一つ。
平安時代、台地一面に葛やススキが生い茂り真葛ケ原(まくずがはら)と呼ばれた辺りを、明治維新の廃仏毀釈(神仏分離令1870)、上地令(1871)で、祇園感神院(当時の八坂神社)は壊され、安養寺、長楽寺、双林寺の境内も大きく官に没収され、全8万6641㎡の敷地を明治18年(1885)、公園として整備した。
とにかく明治の御一新は京都を大きく変えた。
祇園から円山公園の喧騒を抜けた東奥に密かに佇む長楽寺。
石段の下で足を止めても、石段を上がる人は極端にいない。
延暦24年(805)桓武天皇の勅命により伝教大師・最澄を開基として創建された寺ですが、平清盛の娘で高倉帝の中宮・建礼門院徳子が壇ノ浦での平家滅亡後、ここで出家され、我が子安徳帝が最後に召されていたという御衣(ぎょい)をお布施とし自ら幡(ばん)に縫われ御菩提を弔われたと平家物語にも記されている幡が現存します。後に時宗の寺と改められる。
長楽寺山は東山三十六峰の中心にあり京都市内を一望できる絶景の見晴し。
「東山三十六峰」と名付けたのは江戸時代の有名な文人・頼山陽とされる。
山陽はここ長楽寺の時雨の紅葉を詠い、遺言によりここに葬られている。
時雨を厭(いと)う唐傘の 濡れて紅葉の長楽寺
七五・七五のリズムは「今様」ですが、「京の四季」という端唄(はうた)の中に組み込まれ地唄舞として京の花街で舞われています。
京都というところは優れた原石ではあるが蠱惑(こわく)的。
磨きをかけ輝かせてくれる粋人(すいじん)さんが時々現れ、地元での当たり前が他所から来た人の目で輝きを再認識させてくれる。
頼山陽にしろ吉井勇にしろ、谷崎、川端、東山魁夷、
「寄せたげへん ( *`ェ´)σ)゚Д゚`)」気質の京都人が尊敬する新風なのです。
他所からの新風を受け入れてこそ
「伝統」は益々磨きをかけられるのでしょうね。
それにつけても紅葉を帯で表現するのは難しい。
色鮮やかな紅や黄色を表現するには陰の部分をしっかり濁らせる必要があります。
また、紅葉の葉の大小も想いの外、大胆に差をつける苦心があります。
その大小は遠近感の表現にもなり奥行きも与える。
脇がしっかりしてこそ主役がより輝くのです。