先月の陽気が一転、この冬一番の最強最長の寒気団。
堪りませんね、この寒さ。初積雪です。
冬の花 - 東山魁夷 1962年 -背景は金泥
(川端康成「古都」(1962 新潮社)口絵)
川端康成が文化勲章を受章したお祝いに、
東山魁夷は「冬の花」を贈った。
画題は、川端康成の小説「古都」終章の見出しからとった。
川端康成は、この「冬の花」を小説「古都」の口絵にした。
川端康成の「古都」は、昭和36年(1961)10月8日から翌1月23日まで107回に渡り朝日新聞に連載され、作品連載中の11月3日に川端は文化勲章を授与された。
氏は数々の地名を作品の舞台にすることによって、その地をいち早く著名にした。
「北山杉の美しさを書いたのは意外の反響があった。高雄から近く、道もよいのだが、杉など見に行く人は案外に少ないらしい。」と言っていた。
新聞連載当時に川端は旧知の東山魁夷に
「京都を描くなら今のうちですよ」と勧めた。
7年後、魁夷は京都の自然や風景の精華というべき
「京洛四季」の作品群を発表。
川端康成は、「あとがき」で次のように述べている。
「口繪の東山魁夷氏の「冬の花」は、昭和36年の私の文化勲章のお祝ひにいただいたものである。「冬の花」といふ画題は「古都」の終章の見出しにちなみ、作中にある北山杉を描いて下さったのである。
37年の2月・・私の病室へ、東山夫妻がこの繪を持って來て下さった。
病室で日毎ながめてゐると、近づく春の光りが明るくなるとともに、この繪の杉のみどり色も明るくなって來た。」
昭和43年(1968)には日本人初のノーベル文学賞を受賞します。東山魁夷は、そのお祝いに、「冬の花」と同じ構図の「北山初雪」を贈る。川端康成に勧められて、3年位で纏めようとしたが9年がかりで完成した連作「京洛四季」の一つだ。
北山初雪 - 東山魁夷 1968年 -
小説と絵画の違いこそあれ二人の創作の背景に息づくのは、日本美や文化の象徴たる京都への賛美です。
.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.
小説「古都」の最終章「冬の花」の双子の姉妹の会話。
「雪・・・・・・?」
「静かどすもん。雪いうほどの、雪やのうて、ほんまに、こまかい淡雪。」
「ふうん。」
「山の村には、ときどき、こんな淡雪がきて、働いてる、あたしらも気がつかんうちに、杉の葉のうわべが、花みたいに白うなって、冬枯れの木の、それはそれは細かい枝のさきまで、白うなることが、おすさかい。」と苗子は言った。「きれいどっせ。」
「・・・・・・・・・。」
年暮る – 東山魁夷 - 昭和43年(1968)
.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.・*・.
戦後の京都への旅行ブームは
最初が大佛次郎の「帰郷」、第二次が「古都」と言われる。
「帰郷」は焼失前の金閣寺が舞台でスパイのような主人公なので、現代ではピンと来ない。
小説「古都」には京都の風光明媚な場所だけに留まらず、老舗の食物なども登場し、ブログネタには事欠きません。
北山杉は、北山の急な斜面での植林や育林は大変困難であり、また苗木はとても貴重なものなので、「台杉仕立て」という独特な育林方法を編み出しました。
これは一つの株から数十本、多くて百本以上もの幹を育て、一つの株が一つの森のように、更新をしていくものです。これにより、植林の回数を減らし、収穫のサイクルを早め、緻密な木材を作ることができました。
北山林業は、磨丸太の銘木生産林業として全国にその名を知られています。
北山杉は応永年間(1394~1427)頃からつくり始められ、600年の歴史を誇る。
余談ですが、人生初のカーナビを装着した時、地図右下の鷹峯からの山道を誘導されたことがありました。山道なので杉木立の間を縫う景観は良く距離的にも近いとはいえ、結局、高雄から杉の里トンネルを抜け、中川トンネル手前で中川村に折れた方が時間的にも同じでストレスが無いと思います。