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山紫水明

当主のひとりごと (BLOG) 2025.04.13

鴨川の清流を隔てて東山三十六峰を一望でき

まさに山紫水明の境にある

 

「山紫水明」とは「日に映じて、山は紫に澄み水は清くはっきりと見えること。」とまさに京都を表す熟語です。

四文字熟語の漢字ゆえ中国の歴史書からの言葉と思いがちですが実は和製熟語。

東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)」とは京都盆地の東側にある南北12Kmに及ぶ36の山の総称。

山麓には多くの神社や寺院があり、平安時代には皇族や貴族の保養地だった。

この言葉も同じ人が作った言葉です。

江戸時代にはまだまだ漢文の文化が主流でした。

 

 

 

亭主は鴨川からの東山の景観を好み

自らを「三十六峰外史」と号し

自らの書斎を山紫水明處(さんしすいめいしょ)と称した。

 

 

鴨川に面した西岸、丸太町橋の北側に

頼山陽(の書斎兼茶室はの書斎兼茶室はらいさんよう)の書祭兼茶室はある

頼山陽は江戸後期に活躍した儒学者・詩人・歴史家です。

 

京都五条の糸屋の娘

姉は十八 (いもと)は十五

諸国大名は弓矢で殺す

糸屋の娘は眼で殺す

漢詩の起承転結の心をわかりやすく説明した地口(じぐち)です。

 

学者の割に(すい)御仁(ごじん)のようだ。

 

理由は山陽の母・頼梅颸(ばいし)(靜子)にあるようだ。大坂の儒医者・飯岡義斎(いいおかぎさい)の娘として立売堀(いたちぼり)で生まれた生粋の大坂女で84歳まで生きた。母の影響で山陽の「粋」な一面が開花した。

 

 

この地は三本木といい、桂小五郎(木戸孝允)と幾松(木戸松子)の逸話で知られる吉田屋あとを受け継いだ料亭・清輝楼の三軒下にある。

 

簡素な小亭で、立ち並ぶ民家に挟まれ、丸太橋から望める。

頼山陽が晩年居を定めた水西荘の書斎で、ほぼ旧態を残す。

入母屋造藁葺、主室は四畳半で、ほかに北側に二畳および板の間が附属している。室は天井阿字形、床の間、違棚あり、前面は鴨川に臨んで低い欄干あり、三面皆開放して眺望を楽しめるよう、後方は内庭に向かい小蔀窓(こじとみ)を開いている。結核を患っていた山陽は風通しに気を配り、戸を開放すれば東山までの空間や庭先が広がり実際よりかなり広く感じる。

 

 

 

 

山陽は江戸時代後期の安永9年(1780)大阪に生まれ、幼少時代に父春水が浅野侯に招聘されたことにともない広島に赴き藩学に入り、また家学をうけましたが、のち江戸に出て尾藤二洲に学びました。文化8年(1811)京都に居を定めて子弟を教授し、忠孝の義を明らかにし、君臣の分を正し、士道の砥励に努め、もっぱら著述に力を注ぎ、著書は10冊以上あり、特に『日本外史』、『日本政記』、『日本楽府』などが知られています。日本政記はもっぱらこの書斎で書かれたものであるといいます。天保3年(1832)9月没しました。53歳。

『日本外史』や『日本政記』などの著作は、明治維新に際し尊攘派の志士の精神的な支えとなり、維新後正四位を贈られました。墓は長楽寺にあります。山陽の「勤皇」「尊王」に、幕藩体制を否定する意図はなく、近藤勇も愛読したという。大坂町奉行所与力・大塩平八郎、梁川星巌、篠崎小竹、浦上春琴ら多くの文人墨客と交わった。「外史」とは官でなく民間人の書いた歴史書の意味。身内でなく傍目(はため)から見た歴史という意味だそうだ。本名を頼兼襄(よりかねのぼる)という。

 

文政11年(1828)に書斎兼茶室を造営し、かつて木屋町二条下ルに住んでいた時の屋敷の名前をとり「山紫水明處」と名付けた。それがここです。

当時、指折りの知識人で茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を大変好んでいたようです。現在の地に水西荘を構えてからは、親しい友人が来ると、脇に流れる鴨川の水を汲んで煎茶を入れて振る舞うなど、形式にとらわれない、自由な茶の湯を楽しんでいました。

「山紫水明處」は、形式にとらわれない生活・接客の空間として、煎茶の用に適した明るく開放的な造りとなっています。障子の明かり採りにガラスを用いたり、欄干に中国風の意匠を用いるなど、随所に煎茶の影響が感じられます。

このガラス戸のガラス1枚買うのに家一軒買える値段だったそうです。

 

 

 

 

 

歪みや気泡が見えます。

 

 

 

 

昭和の始めまで欄干の下まで鴨川が流れていたそうで、山陽は湿気に強い栗の木の欄干から釣竿を垂らして釣りをしていたそうです。当時、鴨川はいく筋かの流れに枝分かれしており、真下の川から船で移動できたそうです。

柱は北山杉、天井は葦を並べた四注天井、壁の下部、障子の腰板は(よし)の穂先を漆仕上げした網代あじろ作り。

東山を望み鴨川が縁先まで流れていたため東側に庭はなく、西側に庭がある。

庭には、鴨川の伏流水が湧き出す「降り井」が設けられています。「降り井」は、地面から2mほど下に井筒が設けられた半地下式の井戸で、井筒まで降りて水を汲むことから、その名があります。適当な深さに湧き水がないと造ることができないため、京都の伝統的な日本庭園でもほとんど用いられてこなかった大変珍しい意匠です。

清らかな水との接点や自由な気風を大事にする煎茶らしい意匠として、注目されるものです。

山紫水明処(頼山陽書斎)の庭の画像

 

 

昭和初期の降り井の様子

 

 

 

 

 

 

 

 

 

水西荘は山陽の死後、人手に渡り、明治の中頃まで頼家の手を離れていた。敷地は二百六十数坪あったが、「山紫水明處」以外の母屋は戸建てにし貸家にし、現在もそうである。

昭和9年(1934)の室戸台風、翌昭和10年の大雨の後、鴨川の河床が洪水防止のために切り下げられ、山紫水明処は鴨川の流れから離れて「降り井」の水が枯れた。

 

 

 

 

現在は欄干から鴨川までに距離が出来、公園になっていて、生垣が造られた。

また、大文字も見える。

 

 

京都の代名詞である「山紫水明」の由来の場所。

「東山三十六峰」と名付けた粋人さんの棲家。

時の流れには逆らえないけれど、六度の引越しでようやく見出した

(つい)棲家(すみか)」。

流石に絶景でありました。

 

 

この景観を知らずして京都を山紫水明と呼ぶべからず

 

 

 

と、私は思うのであります

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