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花の下臥し 〜 神光院

当主のひとりごと (BLOG) 2025.04.07

宿(やど)貸さぬ 人の辛さを (なさ)けにて 

朧月夜(おぼろづくよ)の 花の下臥(したぶ)

 

「花の頃旅にありて」と題する歌。

宿を貸してもらえなかったお陰で、

桜の下の寝床で朧月夜の花を賞美できたことを詠む。

 

蓮月(れんげつ)を有名にした和歌である。

「無私の人」と称された蓮月の人となりを端的に表わす。

 

自作の和歌を書きつけた彼女の陶器は「蓮月焼」と呼ばれ

人気を博すにつれて大金を稼ぐようになるが、その金を惜しげもなく橋の架け替えなどに寄付した。

 

 

また、何一つ要らぬものを持たない蓮月は、来客があると

自身は木の葉を皿代わりにして食していたという。

 

 

 

 

 

北区の大宮小学校の東南角に石碑があります。

京都はあちこちに石碑だらけで、敢えて読もうとは思わないほど多いのです。

弘法さんって東寺だし、なんでこんな遠く離れた道からと不審に思うと、三弘法というのがあって、その一つが神光院さんらしい。知らなかったです💦

そういえば観光バスから下りた輪袈裟を掛けた団体が、列を成し神光院の方に向かうのを見たことがあります。流行りの御朱印集めツアーかと思い込んでた。

三弘法とは、弘法大師空海とゆかりの深い、東寺仁和寺(にんなじ)神光院(じんこういん)の三つの寺院のことで、三弘法まいりと呼ばれる風習は江戸中期に始まったとされ、三弘法を正月元旦から節分までにお参りすれば、その年の厄除けになるという。また、弘法大師空海の縁日(毎月21日)に巡礼するという習わしもあります。

神光院さんの参道の桜は今が真っ盛りである。

 

神光院は建保5年(1217)、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神職、松下能久が「霊光の照らした地に一宇を建立せよ」との神託を受け、大和国から慶円を招いて寺を建立したという。寺名はこの由緒に因み「神光院」と名づけられた。

この地は京都御所に奉納する瓦職人の宿に用いられており、「瓦屋寺」と呼ばれていた。空海が42歳の時に、当院で九十日間の修行を行ったとされる。修行を終えて寺を去る際、境内の池に映る自らの姿を見て木像を彫り、厄除を祈願したといわれている。この木像は現在も本堂に安置されており、同時に眼病治癒の祈祷をしていたことから、眼病に利益のある寺としても広く知れ渡る。

その後は密教の道場としても栄えたが、天保年間(1830-1843)に堂宇を焼失している。幕末の女流歌人で陶芸家の大田垣蓮月は、晩年、この寺に隠棲していた。境内には「蓮月尼舊栖(きゅうせい)之茶所」と刻まれた石碑とともに、茶所・蓮月庵が残されている。蓮月隠棲中の明治初期に、廃仏毀釈運動を受け、一旦は廃寺となるが、蓮月没後の明治11年(1878)に僧侶、和田月心により再興された。毎年7月21日と土用丑の日には、諸病封じのきうり加持が行われる。

 

 

そうそう、蓮月尼と聞いて思い出したことがあります。

地味ぃで質素な尼さんのイメージが一変してしまいました。

 

 

時代祭の江戸時代婦人列の中にいましたよね。

和宮さんの次に大田垣蓮月は登場します。

続いて、富豪の妻で衣装競べの逸話で有名な中村内蔵助の妻。白無垢に最上級の黒羽二重の襲着姿。そして、池大雅の妻、玉瀾、その祖母の、二人とも女流歌人としても有名。そして吉野太夫出雲阿国という7人の中に選ばれています。

婦人列は頭の先から足の先まで当時の女性ファッションや髪型がそのまま伝えられており、見どころの一つです。
和宮や太夫、蓮月もお梶さんなどみな地毛で結ってます。おそらく芸妓(げいこ)さんです。

有職(ゆうそく)美容師」という日本髪の結髪のみならず各時代の装束にも精通している京都特有の髪結(かみゆ)いです。

 

もともと蓮月は、その美貌を知られており、歳を重ねても一向に衰えぬ蓮月の美しさに、下心を持って近づく男もいたそうです。

そこで彼女はわざと歯を抜いて自らの美貌を台無しにして、誘惑から身を守り抜いたという逸話があります。

蓮月焼で有名になってしまった蓮月は、静かな暮らしを求めて、転居を繰り返す。衣は着たきり、家財道具もほとんど持たず、大八車で身軽に移動しました。

引っ越す度に小屋の設置を任されていた馴染みの大工は、「さよう宿替えは三十四度までは覚えています」と語ったそうです。

 

やがて神光院の月心和上に招かれた蓮月は、境内の一角で暮らすことになります。

紹介したのは、和上と親交のあった蓮月がただ一人  心を許した画家の富岡鉄斎だった。蓮月76歳、鉄斎30歳の時でした。

例の大工が、三畳敷の建物を移築し、神光院の茶所にくっつけました。

自分が創り出した陶芸作品の偽物にまで和歌を刻んであげた蓮月。
神光院でも相変わらず、誰にでも惜しみなく分け与える暮らしを続けました。

 

蓮月は神光院の茶所・蓮月庵に、76歳から85歳で亡くなるまで10年間隠棲した。

蓮月が60歳の頃、侍童(さぶらいわらわ)として預かったのが鉄斎であった。
京都で度々起った飢饉の時には私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど慈善活動に勤しんだ。

もとより蓮月の本領はもっと地に足のついた布施行だった。

蓮月の焼き物や短冊が、京名物のひとつとでもいえるほど有名になってくると、60歳を越した蓮月には、お金が入るばかりで、出て行かないということになった。慶応2年(1866)頃に起こった飢饉では、粥施行所にお金を喜捨するだけでなく、神光院月心和尚、鳩居堂熊谷直孝らと救済に立ち上がっている。もとは呉山と称する画家であった月心には観音の仏画を一千枚描いてもらい、それに蓮月が画賛を書き加え、このお(ふだ)鳩居堂で売ってもらい、売上金で餅をつかせて家々に配ったという。また、様々な古着を買い込んできて、困っている人々に配ったことも度々であった。こうした自らの財を投げ出して、世のため人のためにおこなわれた布施行は、蓮月が亡くなるまで続けられたという。

 

 

蓮月尼には有名な伝説が伝わっている。

明治元年(1868)1月、戊辰戦争に際し、和宮のかつての許婚者、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍の京都発向に当たって、その先陣をつとめた薩長軍が、三条大橋にさしかかったとき、橋のたもとから蓮月が歌を書いた短冊を差し出し、これを受け取ったのが西郷隆盛であったという話だ。

あだみかた かつもまくるも  哀れなり 

同じ御国の 人とおもへば

 

その夜、大津に泊まった西郷は、この短冊を見ながら諸将と協議し、翌朝、大津を発つときには機鋒も鈍っていたという。さらにこの話には尾ひれがついて、江戸開城をめぐって行われた有名な西郷と勝海舟との会談の席にもこの短冊は登場し、山岡鉄太郎の耳にも届き、この短冊が江戸を死地から救うのに大いに役立ったというのである。

この説話のごとき話は、村上素道の編んだ『蓮月尼全集』では、宮崎半兵衛翁なる人物の直談として採録されている。しかし、編者も「三条橋辺の直訴の事は、尼の性格として如何かと思うが、或いは人をして(その)話柄(わへい)を作らしめた因由(いんゆ)(たし)かにあろう」と記されている通り、事実ではあり得ない。ただ、同書には、後年、同様趣旨の話が福地桜痴により脚本化され、歌舞伎座で上演されたということを伝えており、おそらく芝居などを通じて一般に広がっていったのであろう。現在も神光院の蓮月の茶所には、この場面を描いた額(上図)が掲げられている。

 

西郷隆盛と蓮月尼の交流は島原の角屋を舞台に展開されたサロンにおけるようだ。
西郷隆盛が角屋に出入りしていたこと、島原サロンの中で蓮月尼が重要なポジションにあったことなどは、角屋に残されている調度や短冊などから窺われるらしい。

明治8年(1875)、85歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。

 

大田垣蓮月肖像画(富岡鉄斎画)

「蓮月尼舊栖きゅうせい之茶所」と富岡鉄斎によって刻まれた石碑
蓮月の居所には現在不動明王が祀られています

蓮月をしのんで鉄斎が植えた梅の木

 

大田垣蓮月《寛政3年(1791)〜明治8年(1875)》俗名:のぶ)

藤堂藩 伊賀上野 城代家老 藤堂良聖(よしきよ)の庶子といわれ、生後すぐに知恩院の寺士・大田垣光古(てるひさ)の養女となる。養父の光古は誠を引き取った後、知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となった。
生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となった。
この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798)頃より丹波亀山城主松平家に10年ほど御殿奉公をし、歌道を千種有功に学び、薙刀ほか諸芸を身につけた

養父の光古には5人の実子がいたが、そのうち4人は誠が養女になる前に亡くなり、唯一成人まで成長した末子の仙之助も誠が亀山に奉公していた時期に病没した。
そのため光古は養子を迎え、望古(もちひさ)と名乗らせた。
誠は、亀山での奉公を終えた文化4年(1807)17歳で望古と結婚。

誠と望古の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くし、さらに文化12年(1815)には夫も亡くなり、誠は25歳にして寡婦となる。
望古の死から4年後の文政2年(1819)、誠は新たに大田垣家の養子となった古肥(ひさとし)と再婚し、一女を得たが、四年後には古肥と死別した。

古肥の死後、誠は仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪した。剃髪後は、誠は蓮月、光古は西心と号した。

得度して二年後、7歳の娘を失い、更に天保3年(1832)42歳の時、養父を亡くす。

 

その後は岡崎・粟田・大原・北白川などを転々とし、急須・茶碗などを焼いて生計を立てた。

自作の和歌を書きつけた陶器は「蓮月焼」と呼ばれ人気を博すようになる。

嘉永3年(1850)の飢饉の際には京のあちこちで行き倒れが出た。蓮月は質素な生活を続け、富岡鉄斎に大きな包を渡し「これを匿名で届けてほしい」と奉行所に持って行かせた。鉄斎は奉行所で中身を尋ねると、三十両だと知る。今で言えば1000万円近い大金であった。それはある目的のため貯めていた金のすべてであった。当時、鴨川は蜘蛛手のように河川敷を乱流しており歩み板が置かれていたが水が出るたび流されてしまい、難儀を目の当たりにした蓮月は泥をこね埴細工(はにざいく)に励みこつこつ貯めた銭が鉄斎が奉行所に届けた金であった。その後も泥をこね続け、鴨川の丸太町橋を架けるまで10年の歳月がかかった。

慶應3年(1867)秋、西賀茂の神光院の茶所に間借りして、境内の清掃と陶器制作に日を送り、明治8年(1875)12月10日、85歳で逝去した。

            

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