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宗達はどこへ行った 〜光悦寺

当主のひとりごと (BLOG) 2024.11.23

冷え込んできましたね、特に朝晩。

我が家から近い場所に光悦寺があります。

 

小さい寺なのに借景のお手本ともいうべき見事な庭がある。

徳川家康よりこの地を与えられた本阿弥光悦が一族・工匠等と移り住み芸術郷を築いた地。

刀剣鑑定のほか、書・陶芸・絵画・蒔絵などにも優れ、芸術指導者としても活躍した光悦の没後に住まいを寺に改めたのが、ここ光悦寺です。

茶室の竹垣のデザインは有名で「光悦垣」と呼ばれ呉服の意匠としても有名です。

 

入り口は狭く紅葉のトンネルを潜ることになります。

そのまま真っ直ぐ進むと見晴らしのいい場所に出ます。

光悦寺のあるところは鷹ヶ峰(たかがみね)です。

正面に見えるのが鷲ヶ峰(わしがみね)

ここからは見えないが画面右手奥に(てんがみね)があり、合わせて鷹ヶ峰三山と呼ぶ。

 

 

鷹ヶ峰は元々は「兀山(こつざん)」つまり「はげやま」でした。

かつては植林されておらず、ススキが茂る草原性の山だったのかもしれません。

 

 

花札の「月」の絵をご存知の方も多いでしょう。

手前にあるのは海ではなく「(すすき)の兀山」鷹ヶ峰。

俗に「坊主」と呼ばれる札です。

 

 

 

ところで、私は昔から不思議に思うことがあります。

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」(本阿弥光悦筆・俵屋宗達画)という作品をご覧になったことがあると思います。

宗達が金銀泥で下絵を描き、その上に光悦が三十六の歌人の歌を散らし書きにした、15メートルにも及ぶドラマチックな作品は宗達の金銀泥絵の最高傑作です。

例えば冒頭の柿本人麻呂の和歌の「浦乃」の「乃」の文字に注目頂きたい。

明らかに書の上から金泥の鶴の足が被せてあります。

これは完成した画を受け取ってから書家が文字を書いたのではなく、同じ場に画家と書家が同席していた証であります。他にも同様の事象があります。

そしてこの画巻の末尾には「光悦」の黒文方印はあっても「宗達」の署名が無い。

俵屋宗達という人物は当時の文献にもほとんど登場しない謎多き人物です。

このことから、もしかして宗達という人物は光悦ではないかという疑惑が出てくるのです。

 

 

秋の夜長にみなさまも何か疑問の解明なんてなされても愉しいかもしれませんよ (;^)ん~

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