♪牛若丸♪
京の五条の橋の上
大のをとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかゝる
牛若丸は飛び退いて
持つた扇を投げつけて
來い來い來いと欄干の
上へあがつて手を叩く
前やうしろや右左
ここと思へば又あちら
燕のやうな早業に
鬼の弁慶あやまつた
五条大橋のモニュメントは、西詰の中央分離帯にあります。
童謡♪牛若丸♪をモチーフに牛若丸と弁慶を御所人形風にとても愛らしく造形されています。
1961年京都青年会議所が寄贈したもので、作者は岡本庄三(※1)。
童謡♪牛若丸♪は、明治44年(1911)に作られました。
翌年、初世市川段四郎と片岡我童の歌舞伎「橋弁慶」も初演されています。
牛若丸と、武蔵坊弁慶が出会ったとされる五条の橋での伝説を描く広重の浮世絵「本武将浮世絵」。
武蔵坊弁慶は、京で千振の太刀を奪うことで願いを成就させようとしていました。
この話を聞き付けた牛若丸は夜、五条の橋で武蔵坊弁慶を待ち伏せすることに。
現れた弁慶は高価な太刀を佩いた牛若丸に向かい、太刀を寄こせと言いそのまま薙刀で斬り付けます。しかし、攻撃をひらりとかわす牛若丸は上に横に飛び、弁慶を翻弄し、挙句に負けた武蔵坊弁慶は、牛若丸の配下となりました。
この「本武将浮世絵」を描いた歌川広重は、江戸末期に活躍した浮世絵師です。
役者絵からはじめ、美人画や歴史画なども手がけた後、「東海道五十三次」や「江戸名所百景」といった風景画で人気を博すようになります。
この武者絵も、背景の月や山、川は叙情的で美しく、夜の京の静けさを表し、対する橋は画面右から左下へ斜めに向かう勢いのある構図で、勝負の緊迫感が表現されています。描かれた弁慶の薙刀は、「岩融」と号された刃の部分だけで3尺5寸(約106cm)もある大薙刀です。
童謡♪牛若丸♪は江戸時代に流行った伝説から生まれたものと思われます。
現在の五条通は京都市の中心部を東西に貫き、ほとんどの区間が国道の主要幹線。
堀川五条以東は国道1号で、烏丸五条以西は国道9号です。
そもそも現在の五条通は平安京のの六条坊門小路にあたる。
平安京の五条大路は現・松原通であり、嵯峨天皇の命で橋が架けられたと伝わる。
安土桃山時代、豊臣秀吉が「国家安康」の鐘で知られる方広寺大仏殿の造営に当たり、元の五条橋を平安京の六条坊門小路に架け替え五条橋と称した。
元の五条橋は、清水寺の参詣道でもあり、人の往来が多く、都の目抜き通りとして賑わうこの通りに架かっていた橋であり、通りの両側に見事な松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれていた。
五条橋が架け替えられたので、五条松原橋の名前から「五条」が外れ、以後、松原橋と呼ばれるようになった。
だから牛若丸と弁慶の出会いは、現・五条大橋ではなく、現・松原橋になる。
しかしそもそも、二人が橋で出会ったという物語自体が後世の創作であり、松原橋が正しいというわけでもない。
「楼門五三桐」同様、あくまで創作上の話です。
「義経記」によれば五條天神社で出会い一度目の勝負をし、次は清水寺で勝負をし、負けた武蔵坊弁慶が牛若丸の配下となります。
ややこし、ややこし、ややこし、あぁややこし ヾ(*`Д´*)ノ
伝説とは、こうして創り上げられていくのでしょうね。
(※1)
面屋庄三は、明治43年(1910)京人形司12代面屋庄次郎の子で、父に人形制作を、藤川勇造に彫刻を学ぶ。昭和4年、二科展初入選。同28年、無形文化財保持者となる。平成6年(1994)死去、83歳。京都市立美術工芸学校卒。本名は岡本庄三。