京都は身近なちょっとした場所にも歴史満載だったりする。
間口の狭い、通り過ぎるに数歩の八幡さん。
西陣中央小学校の西向かい、今出川智恵光院上がる。
首途八幡宮(かどではちまんぐう)、元の名は内野八幡宮。
鞍馬寺で修行していた16歳の遮那王(義経)は、寺を抜け出しここで金売吉次(かねうりきちじ)と落ち合い、近くにあった内野八幡宮で道中の安全を祈願してから奥州平泉の藤原秀衡のもとへ旅立った。
内野八幡宮は義経信仰から旅立ちの意味の首途に変わった。
創建は不明だが少なくとも平安時代にはここは内野八幡宮と呼ばれていたそうだ。当時、この辺りは都の中心部だったので、〝内側の野〟というような意味ではないかと推察される。大内裏の北東に位置し皇城鎮護の社として重んじられ、清和天皇の第六皇子・桃園親王( 生年貞観15年)(873)の邸宅跡と伝わる。
源氏物語 巻二十 朝顔
桐壺帝の弟・桃園式部卿の宮(ものぞのしきぶきょうのみや)の姫だから朝顔の姫君は皇族。初登場は第二帖「箒木」、光源氏の初恋だったかもしれません。次に登場するのが第九帖「葵」、次は第十帖「賢木」、そして第二十帖「朝顔」。
朝顔の姫君は15年もの間、光源氏に熱心に求愛されながらも最後まで結ばれることはなかった異彩を放つ存在です。
「源氏物語」原文に「桃園」の語は2度しか登場しません。
朝顔の姫君が父式部卿の死去により斎院を退き、父の邸「桃園の宮」で叔母・女五宮と暮らすという内容。ここで初めて父の邸が「桃園の宮」と呼ばれていたことがわかるのです。そしてそこは一条の北、大宮の西にあったとされ、この位置に当たります。
桃園の宮ということで桃の木に縁が深く桃の隠れ名所です。
間口は狭いのに奥行きはあり、本殿は高台となる妙な造り。
首途八幡宮の社伝によるとかつて池・築山を中心とした庭園に桃の木が植えられ、春に桃花祭が行われていたそうです。
源平咲きとは源氏の白旗、平家の赤旗に因んで同じ木や花に紅白の花びらが咲くことをいう。
あれ?結局、また源平の時代になってしまってる 「(゚ペ)
現・西陣中央小学校は3つの小学校が合併したものですが、元々この場所にあった小学校は桃園校(とうえんこう)という名でした。