我が家の近くに本法寺というお寺がある。
山号を叡昌山といい日蓮宗の本山です。
天正15年(1587)秀吉の聚楽第建設にに伴う都市整備で現在地へ移転された際、本阿弥光悦は父と私財を投じ堂塔伽藍の整備に尽力した。だから光悦作庭の庭や光悦手植えの松があったり美術作品も多く、本法寺は本阿弥家の菩提寺である。
大きな寺であるので西は堀川通まであるが正面は小川通だ。
山門前に石橋が架かっているのに川は埋め立てられて流れていない。
通り名は「おがわ」だが、川の名は同じ字で「こかわ」。
かつて流れていた小川の川幅を知る唯一の場所。
この僅か数歩で渡れる川が実は歴史上たいへんな川だったのです。
子供の頃「人の世むなし」と覚えましたよね。
応仁元年に勃発し文明9年の約10年間に渡る内乱。
戦の勃発が1467年なので「一の四、六七し応仁の乱です。
八代将軍足利義政には息子がなく、弟・義視を次期将軍に指名。
義視は出家の身を還俗までして将軍になる決意をした矢先、義政の正室・日野富子に息子・義尚が生まれる。
乱の発端は、細川勝元の推す義視と山名宗全が推す義尚との後継争いでした。
乱は京を焼け野原にし、公家も幕府も衰弱させ、戦国時代に突入して行ったのですが、このちっちゃな川に架かる百々橋というちっちゃな橋に対峙して、川の東の細川勝元と川の西に山名宗全の大群が数度に渡る激戦を繰り広げた川だったのです。「西陣」という地域名は西の陣から来ています。
小川通は紫明通〜錦小路までだそうですが、一旦、寺之内通で途切れます。
小川通を北から寺之内通に向けて見ると、右手が本法寺、真向かい左が裏千家、その向こうが表千家。どうやら表さんで茶会のようです。余談ですが、何故、千家一族が小川通に茶室を営んだかは埋め立てられても地下には良質の水脈が流れていたようで、その名水を求めたものと考えられている。
本法寺は応仁の乱後一世紀以上後に建てられたので、「こかわ」の幅を知る上では唯一の場所であっても、応仁の乱の時にはこの場所にはなかった。
そして突き当たりの和菓子屋が俵屋吉富。
NHKプレミアムで放映されてた「京都人の密かな愉しみ」で常盤貴子さんが最後に挨拶したはったお店です。
最終回の「桜散る」で石丸幹二さんと逢瀬を果たしたのが、本法寺さんの本堂前の満開の桜ごしに多宝塔を背景にしたアングル。
もう満開でした。
あっそやそや
なんで本法寺さんと「さん」付けで呼ぶかいうたら、うちの町内の地蔵盆の棚経は毎年、本法寺さんからお越しいただいてるご縁と畏敬の念からです。
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