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釘抜さん

当主のひとりごと (BLOG) 2026.02.02

千本通にある、またまた奇妙なお寺です。

釘抜(くぎぬ)きさん」と庶民に親しまれている浄土宗の寺院。

正式名は 家隆山光明遍照院 石像寺(しゃくぞうじ)

弘法大師が開基したと伝えられ、地蔵堂には大師が自ら刻んだとされる石造地蔵菩薩像が安置されている。

人々を苦しみから抜き取るお地蔵様ということから、元々は「苦抜くぬき地蔵」でしたが、16世紀半ばから現在の通称「釘抜地蔵」と呼ばれるようになりました。

 

由緒書きによると、両手の痛みに苦しんだ商人が治癒を願ったところ、夢に地蔵尊が現れ、「この度の痛みは常の病にあらず、前世に人を怨み、人形の両手に八寸の釘を打った呪いと罪のためだ。その釘をぬいてやろう」と、人形に刺さっていた釘を抜き取りました。

商人が目覚めると、両手の痛みは消え、寺に赴くと、地蔵の前に血に染まった二本の八寸釘があったそうです。

今も「お百度」詣りの人が絶えません。

寺務所で蝋燭とお線香をもらいお供えし地蔵堂正面で参拝。

願い事を心に浮かべながら地蔵堂を時計回りで100回、もしくは数え年の回数を巡りながら祈願します。

お堂の右にある箱の中にある竹の棒を回数分持ち、一周ごとに箱に戻すのです。今宮神社の「お千度」みたいですね。

そんな言い伝えから、釘抜地蔵の絵馬は特徴的であり、2本の八寸釘と釘抜きを取り付けた縦30センチ、横20センチの大きさで、「御礼」と書かれています。願いが成就し、苦しみが抜けた後にお礼として奉納するのが習わしとのことです。

 

 

正面に設置されている青銅のモニュメントは堂本印象氏がお母様の永眠後、昭和39年(1964)母の供養として制作されたものです。

印象の弟子、岩澤重夫は大学卒業後結婚するまでの四年間ここで住み込みで働き、夜は日展の制作を行なっていた場所です、一人で制作することに限界を感じ、印象に入門するのですが、直後に印象に姪御とご縁を打診され、結婚を決めたそうです。

 

2月2日3日には盛大な節分祭が開催され、どんど焼き、厄除けだるまの授与、甘酒と焼き芋の接待があります。

 

ちょうど読経の最中でした。

甘酒はホンモノの麹の味。生姜もたっくさんありました。

 

 

ほんまの石焼き芋でしたよ😍

 

 

お寺のロゴ入りだけど、もち無料❣️

厄除けだるまは手のひらにのる程のかわいらしい姫だるま。そのだるまに数え年と性別を書いてもらって、家の中の目につくところに置くと、だるまが代わりに厄を受け取ってくれると考えられています。

 

 

 

 

 

堂本印象は明治24年(1891)12月25日、酒造業堂本伍兵衛、芳子の三男として京都に生まれる。本名三之助。

明治43年(1910)京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事していました。

かねてからその才能を認めていた龍村平蔵氏による援助を受け、27歳の時、遂に京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)へ入学した。

堂本印象

翌年の大正8年(1919)、初出品した「深草」が第1回帝展に入選。

第3回展では「調鞠図」で特選。

また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。
京都市立絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、

昭和19年(1944)年、帝室技芸員となった。
戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。

昭和25年(1950年)、日本芸術院会員。

さらに昭和30年(1955)以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。

多くの国際展にも招かれ、昭和36年(1961)には文化勲章を受章した。

昭和41年(1966)、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより開館。

 

また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、上図二点の智積院襖絵をはじめ多くの作品を残した。印象と障壁画制作との関わりは、大正14年(1925)に京都・大徳寺の塔頭である龍翔寺の襖絵、杉戸絵にはじまります。その後、京都を中心に十数か所の寺院の襖絵、天井画、壁画、柱絵などを制作し、晩年の昭和46年(1971)、京都・法然院の襖絵制作にいたるまで、精力的に取り組みました。印象が手がけた障壁画の数は、およそ600面にも及びます。

昭和50年(1975)9月逝去、83歳。

なお、美術館は平成3年(1991)8月にその所蔵作品とともに京都府に寄贈され、平成4年(1992)4月京都府立堂本印象美術館として開館し今日に至っている。

 

 

初代龍村平藏は明治9年(1876)、大阪博労町(現大阪市中央区)の両替商平野屋の平野屋平兵衛の孫として生まれました。

幼時から茶道、華道、謡、仕舞、俳諧と文芸美術の豊かな環境の中で育った彼は、とりわけ俳諧において非凡なる才能を発揮。府立大阪商業学校(現大阪市立大学)に入学したころには、「雪葩(せっぱ)」の俳号で句を詠んでいたといいます。

平藏が16歳の時、祖父が死去。これをきっかけに家業が傾きはじめたことから、彼は退学し、西陣にて呉服商の道へと進みます。

当初は販売に従事していたものの、徐々に織物の技術研究に没頭するようになりました。明治27(1894)年、18歳で織元として独立。商売も順調に拡大し、30代という若さで「高浪織」や「纐纈(こうけち)織」など数々の特許を取得、周囲に衝撃を与えました。

西陣織にジャカード機による機械化の大きな波が押し寄せるようになると、平藏は「織りの技術はもとより、今後は図案の良し悪しがさらに重要になる」と考え、感性に富んだ若手デザイナーを近隣の美術工芸学校から多数起用しました。

これは当時の織物業界においては前例のない画期的なもので、高いレベルの図案が次々と生み出され、起用した若手デザイナーの中から、堂本印象画伯など近代を代表する芸術家が多数輩出されました。

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