歌川広重の東海道五十三次
大尾(たいび=最後)・京師(けいし=みやこ)。
お供に日傘を持たす裕福な商人の娘、
茶の湯の盛んな京ならではの茶筅売。
当時の風俗まで細かく描き込んだ五十三次中、
群を抜いて有名な浮世絵。
なぜ「迷宮」と題したか。
絵の中に広重の犯してしまったミスがあるのですが、お気づきでしょうか?
現代も旅行ブームですが、広重の活躍した江戸後期も空前の旅行ブームで、そんな機運に乗り「東海道五十三次」は出版されました。
臨場感あふれる一連の風景は実際に東海道を旅して描いたものとされた。
しかし最新研究によると、広重は全工程を歩いた訳ではないらしいのです。
「東海道名所図会」という挿絵入りのガイドブックを参考に描かれており、京に近づくに従って挿絵から抜いた図柄が目立ってくることからも判る。
元々、室町時代の造営を戦国時代末期・天正18年(1590)北条氏征伐の時、豊臣秀吉が修復・架橋させた。当時の規模は長さ64間4尺(126m)、幅3間5尺5寸(7.5m)。高欄に付けられた擬宝珠には天正18年正月に日本初の石柱橋として架けられたと彫られています。
迷宮の答は、この橋の橋脚は秀吉が架けて以降ずっと石なのです。
つまり「広重は石の橋脚を木にしてしまった」が正解。
ミスの原因は参考にした「東海道名所図会」の挿絵にある。
挿絵は小さく描かれているため、京都に来たことのない広重は橋脚を木と思い込んだようです。
本年令和6年(2024)1月、補修・修景工事完了。
欄干の他、歩道舗装や防護柵も更新。欄干の木材は京都市産の檜。擬宝珠は再利用。全長73m。夜間ライトアップ用LED装備。
1月16日から22日まで19:00∼21:00、試験点灯が行われている。
京都のメインストリートとしては四条通になりますが、四条は西の果て、東の果てがあります。ところが三条は東海道の西の起点であるので、西の果てはあっても東は東海道となり道は大津へ繋がります。ただ西の果てまで行くにはアーケード商店街などがあるので四条ほど道幅が広くないのです。
歴史の観点からすると四条より三条のほうが重要な点が多いのです。
明治時代に行政区として上京区(かみぎょうく)・下京区(しもぎょうく)の二つのみ生まれましたが、三条を境に分けており、後に合体して京都市が生まれました。
今日はあいにくの雨でしたが、カメラマンが多かったです。