レストランキエフは、1972年、京都・祇園四条に誕生した。
「料理・文化に国境はありません」
創業者の信念であり、今も店づくりの根幹となっています。
何人ものお店の方が入れ替わり立ち替わりやって来られる。
どなたのネームカードも、お身内ばかり?と思うほど。
どなたも「加藤」さん。
アットホームなキャフェでした。
このキャフェ、創業者が加藤幸四郎という人で、旧満洲のハルビンで青春時代を過ごして、ロシア語を学び、ロシア文化に親しんだんだそうです。
当時のハルビンには沢山ロシア人やウクライナ人が住んでいたそうで、1957年に、東京でロシア料理店を始め、呉服問屋の四男だった郷里の京都に店を創業したのは1972年。
その年、京都市とウクライナのキエフ市が姉妹都市となり、京都市の薦めもあり「キエフ」と名づけたそうです。
以来50年以上、京都で本格的なロシア、ウクライナ、ジョージアなど旧ソ連各地の料理を提供し続けています。
ある時、新聞の朝刊に創業者の幸四郎氏は日課の朝の鴨川散歩中に亡くなられたという記事が載りました。
幸四郎氏は結婚して加藤姓になる前は津田という姓で、名門の近江商人です。
それでも、今もこのキャフェの加藤登紀子さんのコンサートは続いています。
そうです、彼女のお父さんが創業者なのです。
2022年、ロシアのウクライナ侵攻に伴い、英語圏と同様の理由で、同年3月31日に日本政府も日本語表記を「キエフ」から「キーウ」へ変更すると発表した。
ここキエフは、ウクライナ発祥とされる赤いビーツを使ったスープ「ボルシチ」やロシア宮廷料理が源流の肉料理「ビーフストロガノフ」が人気で、市民らに親しまれてきた。
1991年にソ連が崩壊した後も店名を変えなかった。「別々の国にはなったが『兄弟国』。旧ソ連地域の食べ物としての『ロシア、ウクライナ料理』だと考えている」と言う。
ロシアの捕虜になった経験のある父・幸四郎氏が、「あの極寒の地で歌を歌う元気のあった奴だけが生き残ったんだよ。トコちゃん、本当に歌は大事なんだ」と言われたそうです。
加藤登紀子さんは満州国ハルビン市生まれで、京都に引き揚げて小中に進学し、中1の夏、父がレコード会社勤務だった関係で東京都世田谷区に転居、東京大学文学部在学中に第2回「日本アマチュアシャンソンコンクール」でフレンチ・ポップスの「ジョナタン・エ・マリ」を歌唱して優勝されて歌手になられたのは有名ですが、私の子供の頃、加藤登紀子は加茂川中学出身だともっぱら評判でした。
キエフは今、登紀子さんの6つ上のお兄さんがオーナーです。
一ツ橋卒で住友金属工業(現日本製鉄)でニューヨーク勤務を経て副社長を務められた方。
住金を退き、2004年に店を継いだ兄・幹雄さんは、計5回、キエフを訪問。教会や宮殿など歴史ある建物が並び、ドニエプル川が流れる風景は「同じ古都の京都によく似ている」と感じ、店名への思いもより深くなった。
東日本大震災後の2011年8〜9月、姉妹都市提携40周年記念の訪問団の一員として訪問した際、現地で復興支援コンサートを開いてくれた。ウクライナ北部にあるチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故の際に支援を受けたお礼と言われたという。「困っている時に助け合える心優しい人たちだと思った」と振り返る。
店ではロシア人、ウクライナ人双方のスタッフが分け隔てなく働いてきた。料理を置く紙製マットには、ロシアやウクライナの地図が描かれ、双方の言葉で「ありがとう」や「おいしい」と紹介されている。
コロナの時、ゑべっさんの帰りに露天商の食べ物は怖くて、キエフのピロシキを持って帰ろうと思い、寄りました。
そしたら、お兄さんがテーブルへどうぞと言って、ロシアンティーを出してくださいました。
いつも予約なしでは待たされる店には客が誰一人いません。
ロシアンティーをご馳走になりお話をするという予期せぬビックリな経験でした。もちろん京都弁です。
『難破船』という楽曲は1984年に加藤登紀子が作ったもの。
「私の20歳の時の失恋を歌った歌なんです。20歳の時の失恋って、初めての挫折だから、すごい奈落の底に落とされたようなショックがあったので、私がその当時40を超して歌っていましたからね。この歌の主人公は20代がいいって思って明菜さんに贈ったらどうかしらと思ったわけです」と話した。
「テレビに出ていて、誕生日を皆におめでとうって言われるでしょ。そうしたら『22なんて大嫌いです』って彼女が言ったんですよね。それを聞いた時に主人公に選んだんです。もう最高って。そういうことを言っている明菜さんに親近感を感じて、いいなと思ったんですね」と明かした。その後、本人に直接、加藤が歌った曲を入れたカセットテープを手渡し「あなたにピッタリだと思うんだけど。もしあなたが歌うんだったら、私は今ステージで歌っているけど、しばらく歌うのもやめて、明菜の歌として、この歌を世に出してほしいって」と言ったという。数日後、加藤が出演していた地方のコンサート会場に中森から花が届き「それが難破船OKの返事なのかな?って」と振り返った。
実際に中森が歌った曲を聴いた加藤は「私以上に、深い、歌の中に歌われている海の底に沈んでいくような無力感みたいなものとか絶望感みたいなものが伝わってくる音だなあ、とか。歌も本当に1個ずつの音符を歌うことよりもその世界を歌おうとしている明菜さんが伝わってきました。主人公であり続けた存在として、凄い人だなあと思いました」と、しみじみと語っていた。
芸能生活60周年の時です。
55周年の時に歌ったシャンソンコンクール優勝の曲です。