京都の難読地名の中でも、たいていの人が読める漢字「太秦」。
『日本書紀』に、機織の技術集団であった秦氏は朝廷への税金の代わりに絹や布を献上していたと記されています。 それらをうず高く積み上げていたことから、朝廷が与えた姓が「兎豆満佐」(万葉仮名)。
拠点を表す「太」の漢字を当て、「秦氏の拠点」で「太秦」になったという。
その太秦に「蚕の社」はあります。
正式名称を「木島坐天照御魂神社」、略称「木島神社」といい、養蚕を日本に伝えた秦氏ゆかりの神社です。
秦氏は、5世紀後半に日本に渡来し、当初は深草を拠点に農業や交易により財力や勢力を蓄え、後に伏見稲荷大社を創建しました。
6世紀後半には深草から葛野に移住し、桂川上流に葛野 大堰を造り、用水路を引いて嵯峨野の開拓を行いました。
また、土木灌漑技術のみならず製陶、醸造、養蚕、機織、金工などの先進技術を日本にもたらしています。
神社の石堂の中に末社の「白清社」があり、「宇迦之御魂大神」を祀っています。この神は俗にいう稲荷大神で、秦氏の氏神でもあり、神代の昔穀物を作り蚕を飼って織物を作る技術をもたらした神とされます。
神社の森は「元糺」とよばれています。秦氏と賀茂氏は姻戚関係にあり、平安時代の嵯峨天皇の時(809-823)に賀茂明神が下鴨神社に遷され、潔斎(物忌み)の場もここから、糺の森へ遷されました。
そのため、こちらの神社の森の名には「元」がついています。拝殿の左に鳥居があり、その向うに見える竹垣の中に、「三柱鳥居」があります。明神鳥居を三基組み合せたもので、「京都三珍鳥居」の一つです。この鳥居の創建時期は不明。
糺の池では下鴨神社と同様に「土用の丑」の日に足浸けの神事(御手洗祭)が行われます。かっては、三柱鳥居付近から湧き水があり、池は常に水をたたえていました。
ところが現在は、近隣の建築等で地下水が遮断され、湧き水が出なくなり、地下水をくみ上げて神事を行います。
本殿には主神・天御中主命、および瓊瓊杵尊、大国魂神、穂々出見命、鵜芽葺不合命の5座を祀っています。
摂社の「養蚕神社」 秦氏の祖神・蚕養の神に加えて、保食命、木花開耶姫命も祀ります。現在でも、製糸、織物、染色に携わる人々の信仰があります。
様々な産業の発展や平安遷都に貢献した秦氏。
やがて秦氏は歴史の表舞台から消えてしまいます。
地の人間と混ざってしまったとも、出雲へ移ったとも。。
そして、賀茂氏が創建した賀茂社(上賀茂・下鴨神社)が、都の守護神として朝廷の祭祀を一手に担うことになります。この賀茂氏は、日本神話に登場する賀茂建角身命が始祖とされ、平安時代に秦氏との婚姻関係などを通してその宗教的側面を受け継いだと考えられます。神紋も同じ二葉葵です。
蚕ノ社の御神紋
賀茂社の御神紋
秦氏は表舞台から消えましたが、この神社は住民や職人らに信仰されて今日まで続いてきました。御手洗祭もインバウンドに関係なく近所の方が中心で、こじんまりとしていますが、厳かな雰囲気でかつての神事を彷彿とさせます。
賑わうのは夜のようですが、屋台も出ていました。
素朴でいい鳥居ですね。これがほんまもんの糺の森です。
拝殿左の茅の輪を潜ると足つけ神事の池があります。
もう少し水かさがあれば昔ながらの池に浮かぶ三柱鳥居が見られるのに。。
お金儲けに走る神社の多い中、足つけ神事は無料なのです。賽銭箱はあります。
地元の人は「御手洗祭」に行くことを「ただす」に行くというそうです。
生まれて初めて来たのですが、「三条御池」という不思議な交差点を越えてすぐ地味な鳥居があったものですから見過ごしてしまいました。
余談ですが、京都(洛中)は碁盤の目なので、交差点は南北の通と東西の通を重ねて言います。
この「三条御池」と言う標識、通常はありえないはずです。
なぜなら「三条」も「御池」も東西に走る通だからです。
これは三条通が大きく湾曲して西へ伸びるから起こった現象です。
秦氏が本拠にしていた葛野から最西端・嵐山まで、三条通は大きく湾曲します。
秦氏一族は、先住民に溶け込む民族で、高官位に就いてもいませんでした。
だから、三条通の湾曲は秦氏を避けたのではなさそうです。平安貴族も嵐山に行くのに秦氏のことは一切記述に残していません。
また、住まいをあちこちに移した天皇も右京だけは避けています。
このことから、地形が原因と考えられます。
京都市右京を北から南にかけて流れる天神川によって、昔から洪水が繰り返された地域でした。天井川だったため洪水になったのです。
天神川の流路はなんと昭和になるまで変わりませんでした。
だから三条通は真っ直ぐ西へ伸びずに湾曲しているのです。