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大文字の正面

当主のひとりごと (BLOG) 2025.08.10

京都には遺跡と呼ばれるものが数多(あまた)あります。

その中には足を運んでも石碑や立看板以外なにも無いところもあります。

「本能寺跡」などがそうで、まず行く人なんていません。

文化庁によると、貝塚や古墳、城跡などの遺跡(埋蔵文化財包蔵地)は全国におよそ46万箇所存在し、毎年9千件程の発掘調査が行われているとされますが、日本考古学が遺跡と遺構を呼び分けはじめたのは僅か30数年前以来です。

本能寺跡の家はどこも金箔塗りの瓦が縁の下にゴロゴロあり、各自で処分していたそうです。日本に遺跡の観念が芽生えたのはそれほど最近のことなのです。

 

 

話は変わりますが、室町時代ってふしぎですよね。

お茶、お花、能、日本庭園。床の間、饅頭、羊羹、納豆。
いわゆる日本文化と言われるものが続々と誕生した時代なのに、なぜかあまりドラマや映画や小説の舞台になりません。
英雄不在の上に、かつては国体が揺らいだ悪しき時代、乱世の至りとも言われ、あまりスポットが当てられて来なかったらしいです。

 

「相国」という意味は、木の上に登り国中を見渡し治める意味で、宰相のこと。左大臣の位を相国と呼んでいました。

相国寺を創建した義満は左大臣であり、相国であることから、義満のお寺は相国寺と名付けられました。

永徳2年(1382)、室町幕府3代将軍・足利義満は、花の御所の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。

この地は百万遍数珠廻しの百万遍知恩寺(我が家の菩提寺)があった場所に建立したと言われる。

 

 

 

 

 

応永6年(1399)9月15日、三代将軍足利義満が7年がかりで七重塔を相国寺東南の地に建立。高さ36丈(約109m)。

「大日本史料」にこの七重塔についての記述があります。

義満の重厄の年であり、父義詮の33回忌にあたる年であり、一千名の僧侶をひきつれて完成式典を主催し、塔上から花をまいたり舞を奉納したりと盛大な式典を行うとあります。

 

室町幕府の我が世の春の象徴がこの七重の大塔だったのでしょう。東寺の五重塔の倍ほどの高さです。

 

塔からの眺めはすばらしく、瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう(相国寺第42世)が「塔上晩望」と題する詩に、そのさまを詠んでいる。

塔上晩望

七級浮図洛北東 登臨縹渺歩晴空

相輪一半斜陽影 人語鈴声湧晩風

(訳)

塔は京の北東に立っている。

塔に上ると蒼天を歩いてるようだ。

夕日をあびた塔の先端がはるか下に影を落としている。

地上の人の声や鈴の音が風に乗って湧き上がってくる。

 

「鈴の音」とは仏塔の軒の四隅に吊した青銅製の鐘形(しょうけい)風鐸(ふうたく)の音でしょうか。

 

 

 

 

 

当時の都を鳥瞰(ちょうかん)した「洛中洛外図屏風」町田本(重文)は、この七重塔からの眺望をもとにして描かれたといわれます。

しかし、この幻の大塔も応永10年(1403)に落雷によって炎上し、その後北山(北山殿=金閣寺境内)に移して再建するが応永23年の正月9日から10日にかけて炎上する。その後、七重塔は相国寺東南の旧地に戻されて再建され、文明2年(1470)3度目の火災で灰燼に帰すまで京のシンボルとして君臨した。

『相国寺塔供養記』に「門の内にいりて見れば、七重のいらかかさなりて、四面のとびら、たるきの彩色、夜めにもかゞやくばかりなり」とあるので甍 の屋根、つまり瓦葺と考えられます。しかし、周辺から沢山の 瓦が見つかったという報告はあり ません。

もしかしたら瓦葺のような屋根を木で作った木瓦葺という仮説が成り立ちます。

木瓦葺の代表は中尊寺金色堂[天治元年(1124)]で、その屋根は一見すると瓦葺のようですが、実は木でできています。

 

ただ一つだけの突出した建造物って、雷に落ちてくれって言ってるようなものですよね。

 

 

北山大塔の遺物が見つかったのは2016年のこと。

金閣寺(鹿苑寺)で、室町幕府3代将軍足利義満が建立した「北山大塔」のものとみられる金属製飾り「相輪」の破片が見つかり、京都市埋蔵文化財研究所が8日、発表した。完成前の1416年に落雷で焼けたが、これまで遺物が見つからず幻の塔とされてきた。

相輪は、塔の最上部から突き出た装飾部分。破片は輪が9つ重なる九輪の一部とみられる。

金閣から約200メートル東の境内にある室町時代の溝で破片3個が見つかった。最大の破片は幅約37センチ、高さ約24センチで、厚さ約1.5センチ、重さ約8.2キロ。復元すると相輪は直径約2.4メートルになることから、巨大な塔だったと推定できるという。塔の土台はまだ確認されていない。

 

 

日本の木造塔で歴代一位の高さを誇った相国寺七重塔。

前代未聞の高さを誇りながらも僅かな記録しか残っておらず、どんな姿だったかも不明。落雷で焼失したのに跡地から一切瓦も出ないのです。

文献に登場するのに遺物が出土しないのが「幻」たる所以。

最新のデジタル技術で復元するとこのようになるようです。

確かに本瓦では重量がかかり過ぎるかもしれませんね。

 

 

 

 

 

現在七重塔の跡は残っていませんが、相国寺の近くに、「塔之段」という地名が残っており、その場所に七重塔があったといわれています。

塔ノ段通を北上

西郷隆盛や湯川秀樹に混じって七重の塔跡も刻まれています

古地図から見てもここです

 

地上から見ると「大」の字は上向きですが、七重の塔最上階からなら真正面だと思います。

 

大文字の送り火も起源のわかる明確な資料がありません。

 

御所に向かって灯されると言う人もいますが、皇室は神道、見ても斜めです。

 

 

 

 

だったら、北向かいの相国寺七重塔と思うのは私だけでしょうか。

 

 

こんな資料もあるのです。

菟芸泥赴(つぎねふ)』に、大の字は横川景三(おうせんけいさん)が相国寺に対して大の字が正面を向くように考慮して画いたものである。

また、『山州名跡志』・『山城名跡巡行志』に、大の字は足利義政の命により、横川景三と芳賀掃部が画いたものである。芳賀掃部は義政の臣であると同時に横川景三の筆道の弟子でもあった。

 

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