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棚機〜七夕

当主のひとりごと (BLOG) 2025.07.04

万葉の時代には既に

日本古来の伝説と中国の伝説が渾然としていました。

 

棚機(たなばた)」とは古い日本の(みそぎ)行事で、

乙女が着物を織り、神さまを迎えて秋の豊作を祈ったり人々の(けが)れを(はら)うというものでした。

  当社袋帯「古事記」図案

選ばれた乙女は「棚機(たなばた)()」と呼ばれ、川などの清い水辺にある機屋(はたや)(こも)って神さまのために心をこめて着物を織ります。 やがて仏教が伝わると、この行事はお盆を迎える準備として7月7日の夜に行われるようになりました。

「七夕」と書き「たなばた」と読むのも、ここから来ていると言われています。

「棚機」を棚機という織機の種類とする説明が見られます。

ところが西陣史にも「棚機」と呼ぶ織機は存在しません。

折口信夫(おりぐちしのぶ)は、

日本紀天孫降臨章にある秀起浪穂之上(ほだたるなみのほのうえ)八尋(やひろ)殿を建て(とある八尋殿は、構への上からは殿であるが、様式からいへば、階上に造り出したかけづくりの棚であつた、と見て異論はない筈である)、此棚にゐて、はた織る少女が、(すなわち)棚機つである。さすれば従来、機の一種に、たなばたといふものがあつた、と考へてゐたのは、単に空想になつて(しま)ひさうだ。我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉ゆきあひの時期を、邑落(ゆうらく)離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。
かうして来ると、従来、

(アメ)なるや おとたなばたのうながせる 玉のみすまる みすまるに あな玉はや 三谷二渡ミタニフタワタらす あぢしきたかひこねの神ぞや(古事記)

といふ歌のたなばたも、織女星信仰の影の、まだ(かざ)さない姿に、かへして見る事が出来るのである。おとといひ、玉のみすまるといひ、すべて、天孫降臨の章の説明になるではないか。而も、其織つた機を着る神のからだの長大な事をば形容して、三谷二渡みたにふたわたらすとさへ云うてゐるではないか。此は美しさを輝く方面から述べたのではなく、水から来る神なるが故に、蛇体と考へてゐたのである。
かうした土台があつた為に、夏秋の交叉ゆきあひ祭りは、存外早く、固有・外来種が融合を遂げたのであつた。其将(まさ)に外来種を主とする様に傾いた時期が奈良の盛期で、如何に固有の棚機つ女に、織女星信仰を飜訳しようとしてゐるかゞ目につく。

 

古代には遠来の客人(まれびと)(神と同義語)を迎え申すとて、海岸に棚作りして、特に択ばれた処女が(はた)を織り乍ら待って居るのが、祭りに先立つ儀礼だったのである。

此風(しふ)(このような風潮が)広くまた久しく行はれた後、殆、忘れはてたであらうが、長い習慣のなごりは、伝説となって残って行った。其が、外来の七夕の星神の信仰と結びついたのである」と述べ、「古事記」に見える「おとたなばた」にそのなごりを認めている。 「たなばた」も「たなばたつめ」も、地上のものとも天上のものとも区別のつかない表現となって用いられている。

 

 

 

 

伝説はやはりロマンティックな要素が強く生き残ります。

江戸時代後期の文献『拾遺都名所図会』には、京の町の七夕の様子が記されています。一夜、家々の軒下で天の二星に献じられた笹飾りを子どもたちが大勢で川へと流しに行く場面です。笹飾りにはたくさんの短冊をつるし、笹の中央に梶の葉形のツクリモノを置き、よく見ると、そこから水平に伸ばした竹竿に幾つもの「梶の葉飾り」がかけられています。

京都では七夕の前日には梶の葉 売りが「かぢーかぢー」と声を高ならせて洛中・洛外を歩き 廻まわ ったようです。

背子せこにうら 恋ひれば 天の川

夜船ぐなる かぢ聞こゆ

(あの方に恋い 焦こがれていると、天の川からかぢの音が聞こえてくるよ)
と詠い「梶=楫」は「梶の木」に音通し、七夕の日には、里芋の葉に受けた清らかな露で墨を()り、ハート形をした梶の葉に恋の願いを書きとどめて川に流すと、その梶の葉は船の(かぢ)となり天の川に届いて願いが叶えられるのです。

 

 

七夕も五節句の一つですが、五節句の由来は、もともと中国の陰陽五行説に根ざしており、奇数が重なる日を邪気払いの日として祝っていたことに由来します。日本に伝来し、特に江戸時代には幕府により公式の祝日として定められ、五節句として親しまれるようになり、五節句それぞれの風習や食べ物には、その時期の自然や季節の移ろいを感じるものが多く、現在も親しまれている行事です。

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