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心々ですさかい〜三島由紀夫

当主のひとりごと (BLOG) 2025.11.12

今年は三島由紀夫の生誕百年にあたります。

 

遺作となった「豊饒(ほうじょう)の海」の後註に、「豊饒の海」は「濱松中納言物語」を典據(てんきょ)とした夢と轉生(てんせい)の物語であり、因みにその題名は、月の海の一つのラテン名なるMare Foecunditatisの邦譯(ほうやく)であると記されている。

三島は、このタイトルに、宇宙的な虚無感と豊かな海のイメージを重ね合わせ、さらに禅語の「時は海なり」の意味も込めていると述べています。

全四巻からなり、各巻の主人公の脇腹に3つの黒子(ほくろ)があり、全巻を通じて登場するのは本多繁邦という人物です。

「人類が月の荒涼たる実状に目ざめる時は、この小説の荒涼たる結末に接する時よりも早いにちがひない」「月のカラカラな嘘の海を暗示した題で、強ひていへば、宇宙的虚無感と豊かな海のイメーヂとをダブらせたやうなもの」

第一巻「春の雪」
執筆期間は昭和40年(1965)6月から昭和41年(1966)年11月まで。
時代は明治末から1914年(大正3年)早春まで。
第二巻「奔馬(ほんば)
執筆期間は昭和41年(1966)12月から昭和43年(1968)6月まで。
時代は昭和7年(1932)5月から昭和8年(1933)年末まで。

飯沼勲     – 永島敏行    尋問官 -池部良
剣道教師 – 誠直也  堀中尉 -勝野洋
蔵原武介 – 根上淳         井筒  – 井田弘樹

 

第三巻「暁の寺」
執筆期間は第一部が昭和43年(1968)年7月から昭和44年(1969)4月まで、
第二部は昭和45年(1970)2月まで。
第一部-時代は昭和16年(1941)から終戦の昭和20年(1945)まで。
第二部 -時代は終戦後の昭和27年(1952)と、15年後の昭和42年(1967)年。
第四巻「天人五衰(てんにんごすい)
執筆期間は昭和45年(1970)5月から同年11月まで。
時代は昭和45年(1970)から昭和50年(1975)夏まで。

 

「豊饒の海」は完結する前から話題作で、「春の雪」は舞台化されていました。

『春の雪』東宝 現代劇特別公演
昭和44年(1969)9月4日 – 12月27日 東京・芸術座
脚色:菊田一夫。演出:菊田一夫、平山一夫。美術:朝倉摂。
出演;市川染五郎(現・松本白鵬)、佐久間良子、一の宮あつ子、内山恵司、志村喬、ほか
※ 当初は10月29日までの予定だったがロングラン公演。三島が公演プログラムに寄稿している。

 

 

『春の雪』松竹 三島由紀夫作品連続公演 II
昭和48年(1973)1月3日 – 28日 東京・日生劇場
脚色・演出:川口松太郎。演出;戌井市郎。美術:古賀宏一。
出演;佐久間良子、市川海老蔵(十二世 市川 團十郎)、丹阿弥谷津子、神山繁、加藤治子、南美江、北城真記子、ほか

 

 

第四巻「天人五衰」で、76歳になった本多繁邦は、死を意識せざるを得ない体の不調に苛まれながら、むしろそのことに鼓舞されて、月修寺を訪れる。

そもそも本多は何故、聡子に会うことを決意したのだろう。

かつて松枝(まつがえ)邸の焼け跡で会った蓼科(たでしな)(聡子の老侍女)に指摘されたように、本多自身の聡子(さとこ)への想いが彼を駆り立てたのだ。

六十年前の清顕(きよあき)と同じように、病にむしばまれ、絶え間ない痛みに襲われながら、死を賭して、というよりむしろ、死への試練をみずからに課すかのように、本多は月修寺への道を歩む。

盛夏七月二十二日の午後、門前で車を降りてから、山門までの道のりを杖をたよりによろぼいながら進む本多の姿は、死出の旅路を行く巡礼のようである。最後は一羽の白い蝶に導かれて、本多は山門に着く。

ここはすでに幽明を異にする場所であるかのようだ。

 

本多の前に現れた門跡となった聡子は、「むかしにかはらぬ秀麗な形のよい鼻と、美しい大きな目を保ってをられる。むかしの聡子とこれほどちがってゐて、しかも一目で聡子とわかるのである」。

「老いが衰への方向へではなく、浄化の方向へ一途に走って、つややかな肌が静かに照るやうで、目の美しさもいよいよ澄み、蒼古なほど内に耀ふものがあって、全體に、みごとな玉のやうな老いが結晶してゐた。」と描写される。ここまで理想化された美を体現する聡子は、何か、この世に存在する老女ではなく、みやびやかな仏像をイメージして描かれているように思われる。

その彼女がまったく感情の動揺を見せずに、本多の話す長い物語を聞いて、清顕の存在さえも否定するかのように言う。

そんなお方は、もともとあらしやらなかったのと違いますか?何やら本多さんが、あるやうに思うてあらしやって、實ははじめから、どこにもをられなんだ、といふことではありませんか?

その松枝清顕(まつがえきよあき)さんといふ方はどういふお人やした?

「門跡の顔には、いささかの(てら)ひも韜晦(とうかい)もなく、むしろ童女のやうなあどけない好奇心さへ(うかが)はれて、静かな微笑が底に絶え間なく流れてゐた。」とあるのも、もはや聡子は、本多の語る物語の世界、そして本多の存在そのものと距離を隔てた位置にあることを示唆している。

本多は呆然と目を(みひらい)た。

「しかしもし清顕君がはじめからゐなかったとすれば」

門跡の目ははじめてやや強く本多を見据ゑた。

それも心々(こころごころ)ですさかい

「この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる。」

 

 

清顕も本多も知らない、と言う断固とした聡子の拒絶の言葉に、本多は自分自身の存在の足元までも揺るがせてしまう。

この結末は「衝撃のラスト」といわれ、多くの人が問題にしています。

 

聡子の言葉を字義通りに受け止めれば、彼女は記憶を完全に失った状態になってしまったか、あるいは、完璧な嘘つきである、ということになる。

読者は、本多と同じく「何もない」時空に投げ出されてしまう。

ここに、作者の仕掛けた巧妙な、巧妙すぎる罠があるのかもしれない。

清顕が、勲が、ジン・ジャンが、そして本多がいる世界と、

聡子の世界は次元が違うのだ。

彼女の言葉でいえば「それも心々」なのである。

聡子の「心」に清顕はいない。

 

 

三島は、法相宗の根本教義である唯識(ゆいしき)説の世界観を描こうとしたので、この寺は法相宗でなければならなかったのです。

唯識(ゆいしき)説というのは一言で言うと、私たちが実在していると思っているものは、心がつくり出したものにすぎない、という思想です。

心が心の上に浮かんだものを見ている。心は見る領分(見分)と見られる領分(相分)に別れていて、そのために外側の世界が実在していると錯覚するのです。

4・5世紀の学僧で、興福寺の北円堂に像がある無著と世親兄弟が体系を構築しました。その考え方は「唯識三十頌(さんじゅうじゅ)」に簡潔にまとめられています。

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