今日はこの冬 最大の寒波の到来です。
京都って通常、夜に積もった雪が朝から溶け始めるものですが、
珍しく朝から雪が降り始め みるみる積もり出しました。
わが庵は 月待山の 麓にて
かたぶく空の 影をしぞおもう
東山の月待山は、如意ヶ嶽(大文字山)北側の山裾にある標高194mの小さな山。
銀閣寺の庭園のすぐ後ろにあり銀閣寺山とも呼ばれる。
庭園から月待山の稜線越しに月が見られるのは夜更けから。
「月が冴える」季節は真冬です。
「傾く影」とは夜明けが近づく頃の月(影)で、
一番冷え込む時間ですね。
銀閣寺の庭園は「夜の庭」と、昔から称される。
庭の巨大な円錐形をした砂盛りの向月台と
波打つ川の砂紋のように砂を敷いた銀砂灘には、
ガラス光沢をもつ石英と真珠光沢のある雲母が混ぜてある。
名月のときには、月光が庭をきらきらと光らせる。
室町幕府8代将軍・足利義政は、応仁の乱を引き起こした張本人でありながら政治に無気力で乱世の最中、隠居してのちに東山に銀閣寺を建て、芸術や趣味に没頭し東山文化が栄えるきっかけを作った人物です。
永享8年(1436)室町幕府第6代将軍・足利義教の三男として生まれた義政は、父・義教が暗殺され、兄・義勝が7代将軍となるも早世したため、僅か8歳にして将軍職を継ぐことになる。
最初こそ意欲的に政治を行うが、思うようにはいかず、側近政治に距離を置くように趣味に没頭する義政は早くの隠居を考えた。
応仁の乱の後すぐに山荘東山殿の造営に取り掛かり、趣味と庭園、山荘造りに没頭したものの東山殿の完成を待たずして死去。55歳(満54歳没)
応仁の乱の後すぐ、足利義政は東山の月待山麓に
自ら茶の湯や書画を楽しむ暮らしをしながら
山荘東山殿の造営を始め、自らの美の神髄を集約しました。
後世、これを「東山文化」と呼ぶようになった。
義政は戦を見て見ぬふりをした。
京に数あった遺産は応仁の乱でほぼ壊滅した。
残った寺院は、
六波羅蜜寺、千本釈迦堂、三十三間堂の三つだけ。
義政の創った銀閣寺は日本家屋の原点といわれる。
畳の部屋、床の間に加え、庭も部屋の一部とした。
生花、能、雪舟の日本での墨絵も東山文化。
政治の功績こそ残せなかった義政は、美的感性だけは一流で狂いはなかった。
間違いがないから現代までその日本家屋の様式は残っているのだ。
司馬遼太郎が珍しく戯曲を書いた。1970年作、同年文学座初演、日生劇場。
高橋悦史の足利義政、杉村春子の日野富子、太地 喜和子の嬉野。
衣装はすべて和紙で作られていた。
義政 焼けろ!焼けろ!もっと風を起せ。
このような汚らしい京は、炎によってしか、
清められぬのだ。
この美しさ、古来、どの絵師が、描き得たか。
義政の祖父は室町幕府第3代将軍にして公武両勢力の頂点に君臨し金閣寺を建てた足利義満です。
金閣・銀閣と聞くと銀閣も元々は銀箔が貼られていたのではないかと想像しがちですが、東山殿を銀閣寺と呼ばれるよになったのは江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったと言われています。
平成19年(2007)の学術調査で、外壁には銀箔が貼られた痕跡がないことが立証されました。
内装・外装共に黒漆塗であったことが判明し、当初から銀箔を貼ろうという計画すらなかったのではないかと考えらる。東山文化とは禅宗の影響を受けた簡素な文化だったのです。
現在、銀閣寺は正式名称を東山慈照禅寺といい、
金閣寺と同じく臨済宗相国寺の塔頭の一つです。
足利義政死後、義政の法号慈照院に因んで名づけられた。
昭和27年(1952)庭園が 特別史跡および特別名勝に指定され、
平成6年(1994)には金閣寺と同じく古都京都の文化財の一部として 世界遺産に登録されています。