修学院の庭は、亭や池や一草一木に至るまで後水尾院の創意によるという。
修学院離宮の中御茶屋。
女主人・東福門院の好みで客殿はひときわ絢爛。霞棚は日本三大棚の一つ。
将軍の娘で唯一皇后になった人がいます。
慶長12年(1607)武蔵国江戸は江戸城で誕生、諱は和子。
徳川二代将軍・秀忠とお市の方の三女・お江与との五女。
諱は「かずこ」だったが、濁音を忌み嫌う宮中の慣習に従い「まさこ」に改めた。
慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦によって徳川幕府誕生。
当時の京は経済的な先進地域であり、同時に御所、寺社など特殊な権威を誇る地域であったため、徳川幕府もこの地の掌握に苦心した。
徳川家康の孫・徳川和子の後水尾天皇への入内は、家康没後の元和6年(1620)。
5月8日、江戸を出発した行列は20日間かけて二条城に到着。
6月18日、二条城を出た行列は北へ進み、御所に向かった。
政略結婚であった14歳の和子に対する女官たちの眼は冷ややかで、和子の誠意と天皇の生母・中和門院の賢明な指導が、立派に幕府と朝廷の間を繋ぎとめさせた。
入内後、和子は一度も江戸に帰ることなく宮廷人としての72歳の生涯を貫いた。
後水尾上皇は、まことに多彩な文化人で、詩歌・連句・俳諧などに秀で、有職故実・歌学・郢曲などにも優れた知識の持ち主であった。三味線に巧みで、奏でながら今様などを歌って人々を驚かせたこともあるほどだった。
歴代の天皇や上皇と比べても共に最も傑出した一人である。
天皇家に生まれ群を抜きん出るほどの才能に恵まれた者は、いつも不幸であった。屈辱に耐えながら長い一生を生き続けなければならなかった。
「紫衣事件」は寛永4年(1687)に起こった。
後水尾が天皇として勅許した大徳寺・妙心寺・知恩寺等々の僧侶十数人の紫衣を幕府が認めないというのだ。大徳寺の僧・沢庵はこれに抗議して奥州へ流罪になる。
次の屈辱は将軍・家光の乳母・福の拝謁。無位の将軍乳母という、宮中席次から言えば、婢女くらいの者が天皇直々の謁見を申し入れてきたのだ。前代未聞のことだったが背後にあるものを怖れた天皇は「春日」の局号を福に与えて拝謁を許した。
芦原よ しげらばしげれ 荻薄
ともに道ある 世にすまばこそ
この歌と共に、後水尾は突如天皇の地位を去る。譲位は和子との間にできた7歳の娘であった。明正天皇である。和子にも院号宣下があり、東福門院の号を賜る。
抑えに抑えた抵抗の精神は何かに向かって噴出するもの。
それが修学院離宮ではないだろうか。
修学院離宮造築の費用の大半が和子の要請により幕府から捻出されたとされる。
入内から天皇の攘夷までの約9年間、東福門院には朝幕の確執に想像を絶する苦しみをもたらしたが、試練を跳ね返すだけの器量、婦徳があった。譲位以後の上皇との仲も睦まじく、二皇子五皇女を産む。
後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、中宮・和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。
茶道を好み、千利休の孫である宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指は現存する。
宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳・乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる。和子の注文した小袖のデザインは後に年号から「寛文小袖」と呼ばれるようになる。
雁金屋の代々当主である尾形家はもとは浅井家の縁戚であり、母・お江与の乳母の実家とされる。和子は自分や娘、女官達の着物の図案を自ら考案した上、雁金屋に大量に注文したり、西陣織などの買入費用は1着:銀500匁とされ、当時の大奥で定められた最高額の1着:銀300匁を遙かに越える物であり年間5千両以上に及ぶその費用は、和子の入内に引け目のあった幕府が負担した。この出費は京を豊かにし、元禄文化の元となったとされるが、江戸中期以降、幕府が困窮するきっかけともなった。
手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵している。
宮中では唐衣裳をはじめ、着衣は焼き払うのが慣例であったのを武家の出身の東福門院から「賜」文化が根付き、東福門院ゆかりの品が数多く残っています。
現存する最古の唐衣裳は東福門院着用です。