「真珠箔」の製法特許や商標登録を持つ者として取り上げないで済まない内容。
我が家の近くに大徳寺があります。
塔頭と呼ばれる小寺院・別坊寺院が22もある中、常時参観可能なのは4ヶ所のみ。
中でも真珠庵は別格で最も奥の北にあり、世人を寄せ付けない非公開寺。
真珠庵の名の由来には二説ある。
一つは天井から真珠を連ねた天蓋が下がっている。
司馬遼太郎は『街道を行く34大徳寺散歩』で
真珠庵の仏堂に入ると、天井から真珠を連ねた天蓋がぶらさがっている。
案内人に真珠と言われ、目をこらしてみたもの、歳月で黒ずんでおりすぐには真珠と見えない、何しろ室町時代からここにかかっているのである。
と述べている。
「真珠の天蓋」とは仏堂天井ではなく、仏像の置かれた空間に天井から吊るされた垂飾のようなものを指すようだ。
もう一つは、中国宋代、臨済宗開祖の一人・楊岐方会が雪の夜に楊岐山の破れ寺で座禅をしていた時に風が舞い、部屋の中へ雪が降り込んできた。その時、床に積もった雪が月に照らされて真珠のように輝いたという故事に因んで名付けた。
一休は真珠庵の完成を待たずして入滅したが、命名だけはしておいたようだ。
一休はユーモラスな行状により人々に親しまれているが、それは江戸初期の『一休咄』によるものである。
一休とは、どうも只者ではないらしい。
後小松天皇の長子であり本来なら身分高い親王であったが、母の身分が低かったという説と、母が南朝方の公卿の娘で油断ならぬと嫌まれ宮廷を去り民家で一休を産んだという説がある。
女色も激しく色情狂と言ってもいいほどで、まさに破戒僧であった。
にもかかわらず、
「なぜあれほど世の上下から敬愛されたかわからない」
と司馬遼太郎は『街道を行く34大徳寺散歩』で言っている。
室町時代、一休宗純禅師を開祖とする「真珠庵」。
二畳台目の茶室「庭玉軒」がある。
江戸時代初期の茶匠・金森宗和好みとされ、内蹲踞の席として有名である。
奥村土牛が文化勲章に輝いた翌昭和38年(1963)に「庭玉軒」内部を描いている。
二畳台目の茶室の客間から点前座を眺めた空間構成を厳しく、謙虚に捉えている。
方丈の東には、わび茶の祖とされる村田珠光作と伝わる「七五三の庭」がある。
平安時代、この地は雲林院の境内の一部であった。
紫式部の産湯に使われたと伝わる井戸が現存している。
今回、初公開の「源氏物語図屏風」。17世紀の作。
真珠庵には計41面の襖絵があり、制作が旧方丈建立時まで遡る。
一休禅師に禅の教えを受けたといわれる曽我蛇足作の真山水図、草山水図、花鳥図は室町水墨画の古例である。
桃山時代を代表する絵師の長谷川等伯が加えて制作した商山四皓図、蜆子猪頭図により構成されている。等伯筆の画面は慶長6年(1601)10月に10日間で描かれたことが知られ、基準性の高い大規模作例である。
真珠庵襖絵は、禅林文化が育んだ水墨画の精華として高く評価される作例である。
ところが、近年では数百年の経年劣化が急速に進み、保全に懸念が生じる状況となっているため、襖全体について早急に解体修理を行う必要が関係者間で確認されていた最中、襖の一部に亀裂が生じ、至急の修理が必要となった。
2015年からの修復作業に入った本家の不在を埋めるため、新襖絵が制作された。
今回の特別公開では2018年、約400年ぶりに新調されたその襖絵も見られる。
本堂「礼の間」
イラストレーターで、ゲーム『ファイナルファンタジー』のアートディレクターを務めた上国料勇作『Purus Terrae浄土』。
真珠庵の山田宗正住職と知り合い「未来の観音菩薩」というテーマを与えられ、2017年秋に襖絵の制作に取り掛かった。本堂「礼の間」の8面の襖絵。
「衣鉢の間」
日本画家で僧侶でもある濱地創宗作「寒山拾得」。
真珠庵で書生として2年半居候していた縁で、住職から襖絵を依頼された。
桃山時代を代表する絵師・長谷川等伯が描いた襖がはめられていたのは本堂「檀那の間」
等伯の不在を守るのは、アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」を制作したガイナックス代表の山賀博之作「蒼きウル」。
山田宗正住職が、山賀さんに襖絵制作を依頼した経緯は非常にユニークだ。
山賀さんの深い呼吸を見て、並外れた「禅定力」を直観して依頼を決めたという。
方丈(本堂)の中心にある部屋の東、北、西の計16面
「釣りバカ日誌」の作画で知られる漫画界の大御所・北見けんいち作「楽園」。
絵師の中では最年長の77歳で真珠庵・山田宗正住職とは古くからの友人。
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