宗達の 屏風ありやと 見てありく
鉾町めぐり おもしろきかも 勇
「山鉾巡行」が動く美術館なら、静の美術館と言われるのは「屏風祭」です。
「屏風祭」は祇園會(=祇園祭)の公式行事ではなく、それぞれの家で宵飾りといって秘蔵の屏風や書画を虫干しを兼ねて飾り、格子を外して通りに面した部屋を開放して自由に見せてくれる鉾町の家々の慣習です。
今宵は宵々々山、夕方からは、山鉾の駒形提灯が灯され、山鉾では祇園囃子が奏でられ、綾傘鉾・四条傘鉾で棒振り踊りが行われます。
昨年の粽を納めてきました。
現代ではビルになった町家も多いけど、昔は紅殻格子を開け放ち屏風をご披露していたものです。祇園祭の宵宮に現代のように広くなかった四条通の御旅所の前では「御蝋納められましょう」とか「安産のお守りは如何どす」とか小僧が賓客に向かって叫んでいたそうです。
ふと、吉井勇の短歌にある俵屋宗達の屏風を探してみようと思い立ちました。
あったんですよ‼️
綾小路の新町西入るに。
しっかし毎年この時期、雨に遭うのが困ったものです。
向かって左半分が伯牙山の会所として使われています。
杉本家です。国指定重要文化財。
四条烏丸エリアにあるのに江戸時代の大店の構えを現代に伝える京町家。
伝わる古文書には天保12年に書かれたという食の習わしがあり、毎月10日毎の決算の日には必ず魚がつく、それ以外は朝夕はお茶漬けと香の物のみ、昼は一汁一菜という非常に質素倹約だったことが分かります。
寛保3年(1743)烏丸四条下るに呉服商を創業し、明和元年(1764)に現在地に移った。
元治の大火後に再建され、明治3年(1870)4月23日に上棟とのこと。
京呉服を仕入れて千葉を拠点に販売する、いわゆる他国店持京商人として繁栄した屋号「奈良屋」こと「杉本家」に展示されていました。
たくさんある屏風の中でやはり俵屋宗達「秋草図屏風」は見事です。
八曲ですが恐らく高さは1mもない屏風です。薄暗いんです、とっても部屋の中。
因みに金屏風は夜に設るそうです。部屋に明かりを得るためだそうです。
民間人所有の宗達を観るって凄いことですよね!
このお家には蔵が三つもあり大火を免れたそう。
現在も蔵に保存されてるだけだそうです。
雑踏のただ中にいて心和むのは、駒形提灯の明かりとお囃子のせいでしょうか。
京都はゆっくりしたもんどす💦
※吉井勇(本名は同じ字で「いさみ」と読む)
明治19年(1886)ー昭和35年(1960)
大正期・昭和期の歌人、劇作家、小説家で伯爵でもあった。
大杉栄・北原白秋の1歳年下で、啄木・谷崎・平塚雷鳥・松井須磨子とは同い歳、折口信夫・中山晋平の1歳年上になる。
伯爵の次男で、高輪で育った江戸っ子である。
若き日に与謝野鉄幹の新詩社の歌門「明星」を叩いた。
入門を願う吉井に、鉄幹は「歌は禅の如きものに御座候」と返事を書いた。この鉄幹の一行に心底、電撃が走ったという。吉井はたちまち「明星」の人となる。そこに白秋も啄木もいた。白秋と吉井は同じ早稲田の学生だった。
鉄幹の新詩社の同人と交わることになり、京都を訪れるきっかけをもたらした。
三度目の京都訪問で祇園の歌を誕生させる。
かにかくに 祇園はこひし 寐るときも
枕のしたを 水のながるる
明治43年(1910)に詠んだ一首で歌集『酒ほがい』に収められている。
祇園白川の両岸には当時は茶屋が建ち並び、茶屋「大友」という文人、画人と幅広く交流のあった磯田多佳の茶屋の奥の一間が川の上に突き出ていたので、その情景が「枕の下を」である。
昭和30年(1955)11月8日、吉井の古希の祝いに「大友」跡に歌碑が建立された。
発起人には四世井上八千代、大谷竹次郎、大佛次郎、久保田万太郎、里見敦、志賀直哉、新村出、杉浦治郎右衛門、高橋誠一郎、高山義三、谷崎潤一郎、堂本印象、中島勝蔵、西山翠嶂、湯川秀樹、和田三造など錚々たる面々が名を連ねた。
「祇園」を愛し、「京都」を愛し、高めた京都人の崇拝する極め付けの「粋人さん」だと私は思う。