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保津川下り

当主のひとりごと (BLOG) 2025.08.11

江戸っ子・漱石は、じつは「京都通」だった。

生涯四度の訪問。

最初は明治25年(1892)7月、友人で俳人の正岡子規と。

二度目は明治40年(1907)春、入社した朝日新聞に「虞美人草」連載の為、

三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路、

四度目は大正4年(1915)春、随筆「硝子戸の中」寄稿直後。

 

二度目の京都で漱石は保津川下りを体験し、その体験を『虞美人草』という作品の描写に使っています。

 

流石に当時の保津川下りのことは分かりかねますが、今と違って船頭さんは船を漕ぐだけだったような気がします。『虞美人草』に船頭さんのトークが登場しないからです。

保津川下りは約2時間の舟下りです。

いまの船頭さんは、どなたも舟のこと景観のこと、いろんな話を面白おかしく話してくれます。

 

 

 

保津川の舟下りは、京都の豪商であった角倉了以の保津川の開削に始まります。了以は51才の時、保津川を開削して丹波と京都を結び、水運を利用して豊富な丹波の物資を京都に運ぼうと決心、慶長11年3月、周囲山に囲まれて難所の多い上、巨岩巨石が横たわり、しかも急流である峡谷を開削、水路を作る工事に着手しました。そして幾多の犠牲を払い巨費を投じて、保津川は了以によって水運が築かれたのです。

彼は保津川の水運を開いただけでなく、京都の高瀬川を開いて京都と大阪を運河で結んだ他に、幕府の命を受けて天竜川・富士川の舟運も開きました。保津川下りの舟も浅瀬用の底の平な高瀬舟です。

保津川下りの終着点に近い嵯峨嵐山に舟がはいると右側の山腹に大悲閣(千光寺)が見える。この寺は了以が開削工事の犠牲者の霊を弔うために建立した寺で、了以翁の記念碑も建っています。

 

 

嵯峨野駅(始発駅)からトロッコ列車に乗ります。

トロッコが走るのは旧山陰線で現存する鉄道の最古の線路。

窓の無い天井はガラス張りの車両に乗ります。

保津川下りに手を振ります。

いよいよ乗船。

最初は川幅も広くたおやかな流れです。

 

終着・嵐山で船頭さんに下ろしてもらったところが三条通の西の果てです。

 

帰りは嵐山から北野白梅町まで嵐電で。

 

 

虞美人草

夏目漱石

浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨さがより二条にじょうに引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波たんばへ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡かめおかに降りた。保津川ほづがわ急湍きゅうたんはこの駅よりくだおきてである。下るべき水は眼の前にまだゆるく流れて碧油へきゆうおもむきをなす。岸は開いて、里の子の土筆つくしも生える。舟子ふなこは舟をなぎさに寄せて客を待つ。「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、こべりは尺と水を離れぬ。赤い毛布けっとに煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭のかずは四人である。真っ先なるは、二間の竹竿たけざおづく二人は右側にかい、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいとかいが鳴る。粗削あらけずりにたいらげたるかし頸筋くびすじを、太い藤蔓ふじづるいて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手のふしたかきは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんとく力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根くびねを抑えられた櫂が、くごとにしわりでもする事か、こわうなじ真直ますぐに立てたまま、藤蔓とれ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、とどまる暇なきに、前へ前へと送る。かさなる水のしじまって行く、こうべの上には、山城やましろ屏風びょうぶと囲う春の山がそびえている。せまりたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡さんきょうに入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭のたいかして岩と岩のせまる間を半丁のむこうに見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、ふなばたから首を出した時、船ははや瀬の中にすべり込んだ。右側の二人はすわと波を切る手をゆるめる。かいは流れて舷に着く。へさきに立つは竿さおよこたえたままである。かたむいて矢のごとく下る船は、どどどときざみ足に船底に据えた尻に響く。われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君がゆびさうしろを見ると、白いあわが一町ばかり、か落しにみ合って、谷をかすかな日影を万顆ばんかたま我勝われがちに奪い合っている。
さかんなものだ」と宗近君は大いに御意ぎょいに入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は至極しごく冷淡である。松を抱くいわの、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、さおあやつり去る。通る瀬はさまざまにめぐる。廻るごとに新たなる山は当面におどり出す。石山、松山、雑木山ぞうきやまと数うるいとま行客こうかくに許さざるき流れは、船をってまた奔湍ほんたんに躍り込む。
大きな丸い岩である。こけを畳むわずらわしさを避けて、むらさき裸身はだかみに、ちつけて散る水沫しぶきを、春寒く腰から浴びて、緑りくずるる真中に、舟こそ来れと待つ。舟はたても物かは。一図いちずにこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲うずまいて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。けずられて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末ゆくえである。岩に突き当って砕けるか、き込まれて、見えぬ彼方かなたにどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波をむ岩の太腹にもぐり込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手ががると共に舟はぐうと廻った。この獣奴けだものめと突き離す竿の先から、岩のすそを尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘きゅうなんを落ち尽すとむこうから空舟からふねのぼってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命のこぶしを収めて、肩から斜めに目暗縞めくらじまからめた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟をいて来る。水行くほかに尺寸せきすんの余地だに見出みいだしがたき岸辺を、石に飛び、岩にうて、穿草鞋わらんじり込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手はかれてそそぐ渦の中に指先をひたすばかりである。うんと踏ん張る幾世いくよの金剛力に、岩は自然じねんり減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱ひきづなをわが勢にさからわぬほどに、すべらすためのはかりごとと云う。
「少しはおだやかになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山のはるかの上に、なたの音が丁々ちょうちょうとする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏のどぼとけを突き出して峰を見上げた。
れると何でもするもんだね」と相手も手をかざして見る。
「あれで一日働いて若干いくらになるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いてようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつにはしっている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。ねがわくは船頭のさおを借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏じょうぶつしている時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ちった。
「そう困った日にゃほうが付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
肝胆相照かんたんあいてらすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものにちがいない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙然もくねんとして、船の底を見詰めた。言うものは知らずとむかし老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川ほづがわと肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手をたたく。
乱れ起る岩石を左右に(めぐ)る流は、いだくがごとくそと割れて、半ばみどりを透明に含む光琳波こうりんなみが、早蕨さわらびに似たる曲線をえがいて巌角いわかどをゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。「その鼻を廻ると嵐山らんざんどす」と長いさおこべりのうちへし込んだ船頭が云う。鳴るかいに送られて、深いふちすべるように抜け出すと、左右の岩がおのずから開いて、舟は大悲閣だいひかくもとに着いた。二人は松と桜と京人形のむらがるなかにい上がる。幕とつらなるそでの下をぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。赤松の二抱ふたかかえたてに、大堰おおいの波に、花の影の明かなるを誇る、橋のたもと葭簀茶屋よしずぢゃやに、高島田が休んでいる。昔しのまげを今の世にしばし許せとかぶ瓜実顔うりざねがおは、花に臨んで風にえず、俯目ふしめに人を避けて、名物の団子をながめている。薄く染めた綸子りんず被布ひふに、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねるきぬの色は見えぬ。ただ襟元えりもとより燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。「あれだよ」
「あれが?」
「あれがこといた女だよ。あの黒い羽織は阿爺おやじに違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪ひょうたんえいを飾る三五の癡漢うつけものが、天下の高笑たかわらいに、腕を振ってうしろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、たいを斜めにえらがる人を通した。色の世界は今がさかりである。

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