江戸っ子・漱石は、じつは「京都通」だった。
生涯四度の訪問。
最初は明治25年(1892)7月、友人で俳人の正岡子規と。
二度目は明治40年(1907)春、入社した朝日新聞に「虞美人草」連載の為、
三度目は二年後の秋、中国東北部への旅の帰路、
四度目は大正4年(1915)春、随筆「硝子戸の中」寄稿直後。
二度目の京都で漱石は保津川下りを体験し、その体験を『虞美人草』という作品の描写に使っています。
流石に当時の保津川下りのことは分かりかねますが、今と違って船頭さんは船を漕ぐだけだったような気がします。『虞美人草』に船頭さんのトークが登場しないからです。
保津川下りは約2時間の舟下りです。
いまの船頭さんは、どなたも舟のこと景観のこと、いろんな話を面白おかしく話してくれます。
保津川の舟下りは、京都の豪商であった角倉了以の保津川の開削に始まります。了以は51才の時、保津川を開削して丹波と京都を結び、水運を利用して豊富な丹波の物資を京都に運ぼうと決心、慶長11年3月、周囲山に囲まれて難所の多い上、巨岩巨石が横たわり、しかも急流である峡谷を開削、水路を作る工事に着手しました。そして幾多の犠牲を払い巨費を投じて、保津川は了以によって水運が築かれたのです。
彼は保津川の水運を開いただけでなく、京都の高瀬川を開いて京都と大阪を運河で結んだ他に、幕府の命を受けて天竜川・富士川の舟運も開きました。保津川下りの舟も浅瀬用の底の平な高瀬舟です。
保津川下りの終着点に近い嵯峨嵐山に舟がはいると右側の山腹に大悲閣(千光寺)が見える。この寺は了以が開削工事の犠牲者の霊を弔うために建立した寺で、了以翁の記念碑も建っています。
嵯峨野駅(始発駅)からトロッコ列車に乗ります。
トロッコが走るのは旧山陰線で現存する鉄道の最古の線路。
窓の無い天井はガラス張りの車両に乗ります。
保津川下りに手を振ります。
いよいよ乗船。
最初は川幅も広くたおやかな流れです。
終着・嵐山で船頭さんに下ろしてもらったところが三条通の西の果てです。
帰りは嵐山から北野白梅町まで嵐電で。
虞美人草
夏目漱石
五
浮かれ人を花に送る京の汽車は嵯峨より二条に引き返す。引き返さぬは山を貫いて丹波へ抜ける。二人は丹波行の切符を買って、亀岡に降りた。保津川の急湍はこの駅より下る掟である。下るべき水は眼の前にまだ緩く流れて碧油の趣をなす。岸は開いて、里の子の摘む土筆も生える。舟子は舟を渚に寄せて客を待つ。「妙な舟だな」と宗近君が云う。底は一枚板の平らかに、舷は尺と水を離れぬ。赤い毛布に煙草盆を転がして、二人はよきほどの間隔に座を占める。
「左へ寄っていやはったら、大丈夫どす、波はかかりまへん」と船頭が云う。船頭の数は四人である。真っ先なるは、二間の竹竿、続づく二人は右側に櫂、左に立つは同じく竿である。
ぎいぎいと櫂が鳴る。粗削りに平げたる樫の頸筋を、太い藤蔓に捲いて、余る一尺に丸味を持たせたのは、両の手にむんずと握る便りである。握る手の節の隆きは、真黒きは、松の小枝に青筋を立てて、うんと掻く力の脈を通わせたように見える。藤蔓に頸根を抑えられた櫂が、掻くごとに撓りでもする事か、強き項を真直に立てたまま、藤蔓と擦れ、舷と擦れる。櫂は一掻ごとにぎいぎいと鳴る。
岸は二三度うねりを打って、音なき水を、停まる暇なきに、前へ前へと送る。重なる水の蹙って行く、頭の上には、山城を屏風と囲う春の山が聳えている。逼りたる水はやむなく山と山の間に入る。帽に照る日の、たちまちに影を失うかと思えば舟は早くも山峡に入る。保津の瀬はこれからである。
「いよいよ来たぜ」と宗近君は船頭の体を透かして岩と岩の逼る間を半丁の向に見る。水はごうと鳴る。
「なるほど」と甲野さんが、舷から首を出した時、船ははや瀬の中に滑り込んだ。右側の二人はすわと波を切る手を緩める。櫂は流れて舷に着く。舳に立つは竿を横えたままである。傾むいて矢のごとく下る船は、どどどと刻み足に、船底に据えた尻に響く。壊われるなと気がついた時は、もう走る瀬を抜けだしていた。
「あれだ」と宗近君が指す後ろを見ると、白い泡が一町ばかり、逆か落しに噛み合って、谷を洩る微かな日影を万顆の珠と我勝に奪い合っている。
「壮んなものだ」と宗近君は大いに御意に入った。
「夢窓国師とどっちがいい」
「夢窓国師よりこっちの方がえらいようだ」
船頭は至極冷淡である。松を抱く巌の、落ちんとして、落ちざるを、苦にせぬように、櫂を動かし来り、棹を操り去る。通る瀬はさまざまに廻る。廻るごとに新たなる山は当面に躍り出す。石山、松山、雑木山と数うる遑を行客に許さざる疾き流れは、船を駆ってまた奔湍に躍り込む。
大きな丸い岩である。苔を畳む煩わしさを避けて、紫の裸身に、撃ちつけて散る水沫を、春寒く腰から浴びて、緑り崩るる真中に、舟こそ来れと待つ。舟は矢も楯も物かは。一図にこの大岩を目懸けて突きかかる。渦捲いて去る水の、岩に裂かれたる向うは見えず。削られて坂と落つる川底の深さは幾段か、乗る人のこなたよりは不可思議の波の行末である。岩に突き当って砕けるか、捲き込まれて、見えぬ彼方にどっと落ちて行くか、――舟はただまともに進む。
「当るぜ」と宗近君が腰を浮かした時、紫の大岩は、はやくも船頭の黒い頭を圧して突っ立った。船頭は「うん」と舳に気合を入れた。舟は砕けるほどの勢いに、波を呑む岩の太腹に潜り込む。横たえた竿は取り直されて、肩より高く両の手が揚がると共に舟はぐうと廻った。この獣奴と突き離す竿の先から、岩の裾を尺も余さず斜めに滑って、舟は向うへ落ち出した。
「どうしても夢窓国師より上等だ」と宗近君は落ちながら云う。
急灘を落ち尽すと向から空舟が上ってくる。竿も使わねば、櫂は無論の事である。岩角に突っ張った懸命の拳を収めて、肩から斜めに目暗縞を掠めた細引縄に、長々と谷間伝いを根限り戻り舟を牽いて来る。水行くほかに尺寸の余地だに見出しがたき岸辺を、石に飛び、岩に這うて、穿く草鞋の滅り込むまで腰を前に折る。だらりと下げた両の手は塞かれて注ぐ渦の中に指先を浸すばかりである。うんと踏ん張る幾世の金剛力に、岩は自然と擦り減って、引き懸けて行く足の裏を、安々と受ける段々もある。長い竹をここ、かしこと、岩の上に渡したのは、牽綱をわが勢に逆わぬほどに、疾く滑らすための策と云う。
「少しは穏かになったね」と甲野さんは左右の岸に眼を放つ。踏む角も見えぬ切っ立った山の遥かの上に、鉈の音が丁々とする。黒い影は空高く動く。
「まるで猿だ」と宗近君は咽喉仏を突き出して峰を見上げた。
「慣れると何でもするもんだね」と相手も手を翳して見る。
「あれで一日働いて若干になるだろう」
「若干になるかな」
「下から聞いて見ようか」
「この流れは余り急過ぎる。少しも余裕がない。のべつに駛っている。所々にこう云う場所がないとやはり行かんね」
「おれは、もっと、駛りたい。どうも、さっきの岩の腹を突いて曲がった時なんか実に愉快だった。願くは船頭の棹を借りて、おれが、舟を廻したかった」
「君が廻せば今頃は御互に成仏している時分だ」
「なに、愉快だ。京人形を見ているより愉快じゃないか」
「自然は皆第一義で活動しているからな」
「すると自然は人間の御手本だね」
「なに人間が自然の御手本さ」
「それじゃやっぱり京人形党だね」
「京人形はいいよ。あれは自然に近い。ある意味において第一義だ。困るのは……」
「困るのは何だい」
「大抵困るじゃないか」と甲野さんは打ち遣った。
「そう困った日にゃ方が付かない。御手本が無くなる訳だ」
「瀬を下って愉快だと云うのは御手本があるからさ」
「おれにかい」
「そうさ」
「すると、おれは第一義の人物だね」
「瀬を下ってるうちは、第一義さ」
「下ってしまえば凡人か。おやおや」
「自然が人間を翻訳する前に、人間が自然を翻訳するから、御手本はやっぱり人間にあるのさ。瀬を下って壮快なのは、君の腹にある壮快が第一義に活動して、自然に乗り移るのだよ。それが第一義の翻訳で第一義の解釈だ」
「肝胆相照らすと云うのは御互に第一義が活動するからだろう」
「まずそんなものに違ない」
「君に肝胆相照らす場合があるかい」
甲野さんは黙然として、船の底を見詰めた。言うものは知らずと昔し老子が説いた事がある。
「ハハハハ僕は保津川と肝胆相照らした訳だ。愉快愉快」と宗近君は二たび三たび手を敲く。
乱れ起る岩石を左右に縈る流は、抱くがごとくそと割れて、半ば碧りを透明に含む光琳波が、早蕨に似たる曲線を描いて巌角をゆるりと越す。河はようやく京に近くなった。「その鼻を廻ると嵐山どす」と長い棹を舷のうちへ挿し込んだ船頭が云う。鳴る櫂に送られて、深い淵を滑るように抜け出すと、左右の岩が自ら開いて、舟は大悲閣の下に着いた。二人は松と桜と京人形の群がるなかに這い上がる。幕と連なる袖の下を掻い潜ぐって、松の間を渡月橋に出た時、宗近君はまた甲野さんの袖をぐいと引いた。赤松の二抱を楯に、大堰の波に、花の影の明かなるを誇る、橋の袂の葭簀茶屋に、高島田が休んでいる。昔しの髷を今の世にしばし許せと被る瓜実顔は、花に臨んで風に堪えず、俯目に人を避けて、名物の団子を眺めている。薄く染めた綸子の被布に、正しく膝を組み合せたれば、下に重ねる衣の色は見えぬ。ただ襟元より燃え出ずる何の模様の半襟かが、すぐ甲野さんの眼に着いた。「あれだよ」
「あれが?」
「あれが琴を弾いた女だよ。あの黒い羽織は阿爺に違ない」
「そうか」
「あれは京人形じゃない。東京のものだ」
「どうして」
「宿の下女がそう云った」
瓢箪に酔を飾る三五の癡漢が、天下の高笑に、腕を振って後ろから押して来る。甲野さんと宗近さんは、体を斜めにえらがる人を通した。色の世界は今が真っ盛りである。