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高瀬舟

当主のひとりごと (BLOG) 2025.04.05

高瀬川は慶長19年(1614)頃、保津峡開発でも有名な豪商・角倉了以(すみのくらりょうい)素庵(そあん)父子が開いた物流用運河でした。

水深が浅いので底の平らな高瀬舟という船が使われ、川の名もそこからきた。

 

かつては二条大橋の南で鴨川西岸を併走するみそそぎ川から取水し、木屋町(きやまち)の西側に沿って南下し、十条上流で鴨川を東へ横断し竹田街道と並行、濠川(ほりかわ)と合流し伏見港を経て宇治川に合流していた。

役目を終えた今、二条から四条までに9箇所あった「船入(ふないり)(=荷物の積み下ろしや船の方向転換を行う場所)」も国の史跡指定の「一之船入」を除きすべて埋められた。

 

 

 

 

「高瀬川」といえば森鴎外の小説を思い出します。

森鴎外『高瀬舟』は明治天皇崩御(1912)の3年後に執筆された鴎外最後の小説。

知足(ちそく)(足るを知る)」「安楽死」がテーマです。

遠島(えんとう)を言い渡された罪人を高瀬舟に乗せて運ぶ。

その罪人は弟と共に西陣で空引(そらひ)きの職人をしており、病気で働けなくなり自害にしくじり死にきれなかった弟の望みを聞き、結果的に殺人者になったのでした。

果たしてこれは弟殺しなのか。

天皇崩御の年あたりにドイツで初めて「安楽死」が問題になっていました。

医者である鴎外は論文を見て、それを知っていました。

『高瀬舟』は江戸時代の随筆集『翁草』の中の「流人の話」を元にして書かれた

『高瀬舟』を失敗作だという人もいます。

それは罪人・喜助の述懐を聞いた同心・庄兵衛が「自分より上のものの判断に任す外ないという念、オオトリテエ(authority=権威・権力)に従う外ないと云ふ念が生じた。」という部分が問題視されたのです。

同心・庄兵衛の権力者に従うという考え方は身分制度の時代の人だからで、

「お奉行様の判断を、そのまま自分の判断にしようと思ったのである。そうは思っても、庄兵衞はまだどこやらに()に落ちぬものが残っているので、なんだかお奉行様に聞いて見たくてならなかった。」

という気持ちの芽生えが主題で、私は失敗作だとは決して思えません。安楽死は現代でも結論の出ない問題です。

 

高瀬舟

森鴎外

 

 高瀬舟たかせぶねは京都の高瀬川を上下する小舟である。

徳川時代に京都の罪人が遠島ゑんたうを申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞いとまごひをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。

それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。

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 いつの頃であつたか。多分江戸で白河樂翁侯が政柄せいへいを執つてゐた寛政の頃ででもあつただらう。智恩院ちおんゐんの櫻が入相の鐘に散る春の夕に、これまで類のない、珍らしい罪人が高瀬舟に載せられた。
 それは名を喜助と云つて、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。固より牢屋敷に呼び出されるやうな親類はないので、舟にも只一人で乘つた。
 護送を命ぜられて、一しよに舟に乘り込んだ同心羽田庄兵衞は、只喜助が弟殺しの罪人だと云ふことだけを聞いてゐた。さて牢屋敷から棧橋まで連れて來る間、この痩肉やせじしの、色の蒼白い喜助の樣子を見るに、いかにも神妙に、いかにもおとなしく、自分をば公儀の役人として敬つて、何事につけても逆はぬやうにしてゐる。しかもそれが、罪人の間に往々見受けるやうな、温順を裝つて權勢に媚びる態度ではない。

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 庄兵衞は少し間の惡いのをこらへて云つた。「色々の事を聞くやうだが、お前が今度島へ遣られるのは、人をあやめたからだと云ふ事だ。己に序にそのわけを話して聞せてくれぬか。」
 喜助はひどく恐れ入つた樣子で、「かしこまりました」と云つて、小聲で話し出した。「どうも飛んだ心得違こゝろえちがひで、恐ろしい事をいたしまして、なんとも申し上げやうがございませぬ。跡で思つて見ますと、どうしてあんな事が出來たかと、自分ながら不思議でなりませぬ。全く夢中でいたしましたのでございます。わたくしは小さい時に二親が時疫じえきで亡くなりまして、弟と二人跡に殘りました。初は丁度軒下に生れたいぬの子にふびんを掛けるやうに町内の人達がお惠下さいますので、近所中の走使などをいたして、飢ゑ凍えもせずに、育ちました。次第に大きくなりまして職を搜しますにも、なるたけ二人が離れないやうにいたして、一しよにゐて、助け合つて働きました。去年の秋の事でございます。わたくしは弟と一しよに、西陣の織場に這入りまして、空引そらびきと云ふことをいたすことになりました。そのうち弟が病氣で働けなくなつたのでございます。其頃わたくし共は北山の掘立小屋同樣の所に寢起をいたして、紙屋川の橋を渡つて織場へ通つてをりましたが、わたくしが暮れてから、食物などを買つて歸ると、弟は待ち受けてゐて、わたくしを一人で稼がせては濟まない/\と申してをりました。或る日いつものやうに何心なく歸つて見ますと、弟は布團の上に突つ伏してゐまして、周圍は血だらけなのでございます。わたくしはびつくりいたして、手に持つてゐた竹の皮包や何かを、そこへおつぽり出して、傍へ往つて『どうした/\』と申しました。すると弟は眞蒼な顏の、兩方の頬から腮へ掛けて血に染つたのを擧げて、わたくしを見ましたが、物を言ふことが出來ませぬ。息をいたす度に、創口でひゆう/\と云ふ音がいたすだけでございます。わたくしにはどうも樣子がわかりませんので、『どうしたのだい、血を吐いたのかい』と云つて、傍へ寄らうといたすと、弟は右の手を床に衝いて、少し體を起しました。左の手はしつかり腮の下の所を押へてゐますが、其指の間から黒血の固まりがはみ出してゐます。弟は目でわたくしの傍へ寄るのを留めるやうにして口を利きました。やう/\物が言へるやうになつたのでございます。『濟まない。どうぞ堪忍してくれ。どうせなほりさうにもない病氣だから、早く死んで少しでも兄きに樂がさせたいと思つたのだ。笛を切つたら、すぐ死ねるだらうと思つたが息がそこから漏れるだけで死ねない。深く/\と思つて、力一ぱい押し込むと、横へすべつてしまつた。刃はこぼれはしなかつたやうだ。これを旨く拔いてくれたら己は死ねるだらうと思つてゐる。物を言ふのがせつなくつて可けない。どうぞ手を借して拔いてくれ』と云ふのでございます。弟が左の手を弛めるとそこから又息が漏ります。わたくしはなんと云はうにも、聲が出ませんので、默つて弟の咽の創を覗いて見ますと、なんでも右の手に剃刀を持つて、横に笛を切つたが、それでは死に切れなかつたので、其儘剃刀を、刳るやうに深く突つ込んだものと見えます。柄がやつと二寸ばかり創口から出てゐます。わたくしはそれだけの事を見て、どうしようと云ふ思案も附かずに、弟の顏を見ました。弟はぢつとわたくしを見詰めてゐます。わたくしはやつとの事で、『待つてゐてくれ、お醫者を呼んで來るから』と申しました。弟は怨めしさうな目附をいたしましたが、又左の手で喉をしつかり押へて、『醫者がなんになる、あゝ苦しい、早く拔いてくれ、頼む』と云ふのでございます。わたくしは途方に暮れたやうな心持になつて、只弟の顏ばかり見てをります。こんな時は、不思議なもので、目が物を言ひます。弟の目は『早くしろ、早くしろ』と云つて、さも怨めしさうにわたくしを見てゐます。わたくしの頭の中では、なんだかかう車の輪のやうな物がぐる/\廻つてゐるやうでございましたが、弟の目は恐ろしい催促をめません。それに其目の怨めしさうなのが段々險しくなつて來て、とう/\敵の顏をでも睨むやうな、憎々しい目になつてしまひます。それを見てゐて、わたくしはとう/\、これは弟の言つた通にして遣らなくてはならないと思ひました。わたくしは『しかたがない、拔いて遣るぞ』と申しました。すると弟の目の色がからりと變つて、晴やかに、さも嬉しさうになりました。わたくしはなんでも一と思にしなくてはと思つて膝をくやうにして體を前へ乘り出しました。弟は衝いてゐた右の手を放して、今まで喉を押へてゐた手の肘を床に衝いて、横になりました。わたくしは剃刀の柄をしつかり握つて、ずつと引きました。此時わたくしの内から締めて置いた表口の戸をあけて、近所の婆あさんが這入つて來ました。留守の間、弟に藥を飮ませたり何かしてくれるやうに、わたくしの頼んで置いた婆あさんなのでございます。もう大ぶ内のなかが暗くなつてゐましたから、わたくしには婆あさんがどれだけの事を見たのだかわかりませんでしたが、婆あさんはあつと云つた切、表口をあけ放しにして置いて驅け出してしまひました。わたくしは剃刀を拔く時、手早く拔かう、眞直に拔かうと云ふだけの用心はいたしましたが、どうも拔いた時の手應てごたへは、今まで切れてゐなかつた所を切つたやうに思はれました。刃が外の方へ向ひてゐましたから、外の方が切れたのでございませう。わたくしは剃刀を握つた儘、婆あさんの這入つて來て又驅け出して行つたのを、ぼんやりして見てをりました。婆あさんが行つてしまつてから、氣が附いて弟を見ますと、弟はもう息が切れてをりました。創口からは大そうな血が出てをりました。それから年寄衆としよりしゆうがお出になつて、役場へ連れて行かれますまで、わたくしは剃刀を傍に置いて、目を半分あいた儘死んでゐる弟の顏を見詰めてゐたのでございます。」

 

 次第に更けて行く朧夜に、沈默の人二人を載せた高瀬舟は、黒い水の面をすべつて行つた。

 

『翁草 巻百十七』「雑話」より

流人(るにん)の話

 流人を大阪へ渡さるに、高瀬より船にて、町奉行の同心之を守護して下る事なり、(およそ)流人は前にも記す如く、賊の類は(まれ)にして、多くは親妻子もてる平人の(つみ)(あへ)るなり、罪科決して島へ遣はさるゝ節、牢屋敷に(おい)て、親戚の者を出呼(すいこ)引合(ひきあわ)せて、暇乞(いとまごい)をさせらるゝ定法(じょうほう)なり、故に親戚長別して舊里(ふるさと)を出る道途なれば、(おの)がどち、船中にて夜と(とも)越方行末(こしかたゆくすえ)の事を(くい)て愁涙悲嘆して、かきくどくを、守護の同心終夜(きく)につけ、哀傷起り、心を痛ましむる事なるに、(ある)時一人の流人、公命を承ると(いな)、世に嬉しげに、船へ(のり)てもいさゝか愁へる色不見(みえず)、守護の同心是を見て、卑賤の者ながらよく覚悟せりと感心して、船中にて彼者(かのもの)に対して称嘆するに、彼(いは)(つね)(わづか)の[(いとなみ)]に渇々(かつがつ)粥を(すす)りて露命をつなぎしに、(この)御吟味(ごぎんみ)逢候(あひそうらひ)てより、久々在牢の内、結構なる御養ひを(いただ)き、いたづらに遊び(くら)し冥加なき上に、(あまつさえ) 此度(このたび) 鳥目(ちょうもく)二百文を下され≪二行割注:流人に鳥目二百銅づゝ(たまふ)事古来より定例なり≫て、島へ遣はさる事、如何(いか)なる果報にて如此(かくのごとく)なりや、是迄(これまで)二百文の錢をかため(もち)たる事、生涯に覚え申さず、加程過分(かほどかぶん)元手(もとで) 有之候(これありそうら)へば、たとへ鬼有る島なりとも、一つ身の(しの)ぎはいか(よう)にも出来可申候(できもうすべくそうろう)(もと)より妻子親類とてもなく、苦しき世をわたり兼候(かねそうら)へば、都に名残は更になく候とて、悦ぶ事限りなし、(この)者西陣高機(たかはた)空引(そらひき)(やとは)れありきし者なるが、(その) 罪蹟(ざいせき)は、兄弟の者、(おなじ)(その)日を(すぐ)し兼ね、貧困に(せま)りて自害をしかゝり、死兼居(しにかねおり)けるを、(この)見付(みつけ)て、(とて)も助かるまじき(てい)なれば、苦痛をさせんよりはと、手傳(てつだ)ひて殺しぬる(その) (とが)科に()り、島へ(つか)はさるゝなりけらし、(その) 所行(しょぎょう)もとも悪心なく、下愚の者の(わきま)へなき仕業(しわざ)なる事、吟味の上にて明白なりしまゝ死罪一等を(なだ)められし物なりとぞ、夜守護の同心の物語なり、

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