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天神さんの梅苑〜梅花祭

当主のひとりごと (BLOG) 2024.02.25

毎月25日は北野の天神さんの日。

境内の参道や御前通(おんまえどおり)には露店が所狭しと立ち並びます。

京都では正月の「お初天神」より2月の「梅花祭」が圧倒的に人気がある。

まして休日と重なると凄いことになる。

連休前までは桜も開花するほどの気温

ところが今日は天気予報じゃ雪とは。。。

 

秀吉公が北野天満宮で北野大茶会を開催したことに因み、道真公没後1050年にあたる昭和27年(1952)から始まった行事。

文安元年(1444)、北野天満宮の一部を焼失し再建した際に余った材木で七軒の水茶屋を建てたのが興りの京都最古の花街・上七軒の芸舞妓の「梅花祭野点大茶湯(のだておおちゃのゆ)」が開かれ、それを目当てに大勢の人が集う。有料の梅苑でなく三光門前広場の特設会場で行われるが拝服券が必要。

はんなりしてますなぁ (゚ー゚*)。・:*:・

「はんなり」とは「華なり」の穏便化した京言葉。やわらかい雅な華やかさを言い、ビビットカラーではありません。

今出川七本松通交差点北西から北野天神まで西に伸びる小路の両脇にお茶屋が軒を連ねますが、本来は上七軒通がほんまの今出川で現在の今出川は戦中に道路拡張した時までは今小路だったそうです。

それにしても、よくぞ毎年、梅花祭に見事に梅を開花させると感心します。

祖母が上七軒のある同じ真盛町育ちで、お土居下の紙屋川で遊んでいたら、黒マントの粋人さんが懐中から銀のスキットルを取り出し楼門の石段に腰をかけて梅見をしながらちびちびお酒を召し上がっていたとのどかな光景を語っていました。当時は梅苑も無料で柵さえなかったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大河ドラマで紫式部と道長を取り上げていますが、「梅」といえばこんな内容が「紫式部日記」(年次不明)にあります。

 

源氏の物語 御前にあるのを 殿の御らんじて 

例のすずろごとども出できたるついでに 

むめのしたに敷かれたる紙に書かせ給へる

すきものと 名にしたてれば 見る人の

をらですぐるは あらじとぞ思ふ

給はせたれば

人にまだ 折られぬものを 誰かこの

すきものぞとは 口ならしけむ

めざましう と聞こゆ

(訳)

道長様は中宮彰子様の前に置かれてあった「源氏物語」を見て、梅の下に敷かれた紙にさらさらとこんな和歌をお書きになった。

すきものと 名にし立てれば 見る人の 

をらで過ぐるは あらじとぞ思ふ

(「酸っぱくておいしい」と評判の梅の枝を素通りする人もいないように、「あんな恋愛小説を書けるなんて相当モテる女なのだろう」と評判の「源氏物語」作者を前にしたら素通りできない、口説きたくなってしまうなぁ)

私(式部)はこう返しました。

人のまだ をられぬものを

誰かこの すきものぞとは 口ならしけむ

(まだ折られていないのに、どうしてこの梅が酸っぱいなんてわかるのでしょうか。私とて同じ、男性に告白されたことなんてないのに何故そんな評判が立つのでしょうか)

「心外です」

 

※この道長の和歌の「名」「折らで過ぐ」は「源氏物語・夕顔」に使われています。

咲く花に うつるてふ名は つつめども 

折らで過ぎうき けさの朝顔 

(浮気したと評判になるのは避けたいけれど、朝顔のように美しいあなたのことは素通りできない)

六条御息所の邸に通っていた光源氏が、そこで可愛い女房を見つけて「いやぁ御息所様に浮気だと言われるのは避けたいものの、あなたのことも口説きたくなってしまうなぁ」と誘った場面です。

つまり

道長は式部を御息所邸の女房に見立てて詠んだのです。

 

この日記には重大な記述がありました。

この日記のおかげで「源氏物語」の作者が紫式部だと分かったことです。

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