本年の京都の桜の開花は3月23日でした。

京都のそめいよしの桜の開花情報は世界遺産・二条城の「緑の園」にある推定樹齢50年ほどの木が標本木で京都気象台が5輪以上確認できれば開花となります。
二条城の桜は美しい。
50種300本の桜が城内に植っています。
「物事の始まり」や「繁栄」の象徴である桜
その儚さから「別れ」や「心の移ろい」も連想させます。
五穀豊穣の願いが込められ、春の訪れを告げるポジティブな意味合いが強い一方で、散り際の美しさは人生の儚さも表現しており、複雑な美の象徴でもあります。
二条城には桜がよく似合っているようです。
二条城は慶長8年(1603)、江戸幕府初代将軍徳川家康公が、京都御所の守護と将軍様上洛の際の宿泊所とするため築城なさいました。

東大手門と呼ばれる正門です。
日本のお城は正門が南側に付くことが多いのですが、二条城は90度角度を変えて東向きに造られています。
家康が二条城を造った理由は、正門の向こうにあります。


御所です。
二条城の正門は天皇の住まいだった「京都御所」の方角に向かって造られているのです。
関ヶ原合戦が終わって2年後、家康は京都の真ん中に自分の城を新たに置いたのです。
京都にお城を造って京都をきっちりと管理・支配して朝廷との関係を作る。おそらくその舞台こそ二条城だと思います。

二条城が徳川家の栄華の極みを見せた始めは、家康公の孫・和子様の後水尾天皇様への御入内の時です。
家康公没後の元和6年(1620)でした。
5月8日、江戸を出発なさった和子様の行列は,20日間を費やして東海道を上り、二条城に到着なさいました。その間、朝廷でも関白・九条忠栄や鷹司信房らにお命じになり、和子様を従三位に叙し入内の日を待つばかりとなっておりました。
6月18日、二条城を出た和子様の行列は北へ進み、中立売の橋を渡って御所に向かわれました。当時、この橋を「戻橋」と称していましたのをこの日のために「万年橋」と名を変えたと伝わります。
因みに「戻橋」は、『源平盛衰記』では一条堀川の橋と伝えられ、現在もそう伝承されていますが、『山城名勝志』には「元土御門堀川橋也、今一条堀川橋を戻橋と言う」とあり、土御門は現在の上長者町であるから、必ずしも位置は一定しない。ただ、少なくともこの当時は中立売の橋を戻橋と呼んでいたのは確かなようです。

二条城においては、寛永3年(1626)9月、上洛中の徳川秀忠、家光公の招きに応じ、後水尾天皇が行幸なさいました。

「行幸」とは天皇様の外出のことを言います。
いわゆる寛永行幸です。
今年は丁度400年目の年に当たります。

城内は、後水尾天皇の行幸のため、三代将軍家光公の時、大御所の秀忠公によって大規模な改修が行われました。
壮麗な城に、天皇様をお迎えすることで、江戸幕府の支配が安定したものであることを世に知らしめたものです。


二代将軍秀忠公の五女であり、天皇様の中宮となられた和子様らと 5日間滞在し、能や和歌などの会が賑々しく催されました。
行幸を迎えるにあたって、2年前から城を現在の広さまで拡張し、天守閣や行幸御殿、本丸御殿なども造営されました。
また、狩野派の見事な障壁画も行幸に際して新たに描かれたと言われています。
「寛永文化を花開かせた中心人物」と言われる第百八代天皇 後水尾天皇を中心に、御所から二条城まで9000人を超える空前絶後の大パレードが行われました。朝廷と幕府方が勢揃いし公武の融和が生まれただけでなく、沿道には日本各地から老若男女・身分を問わず様々な人々が詰め寄り、着飾り浮かれ騒ぐなど、異様ながら華々しく歴史的な出来事だったことが、「二条城行幸図屏風」からわかります。
天皇御一行の二条城到着後、行われたのは「晴れの御膳」「内々の御宴」。天皇が使う御膳具はすべて黄金で、その他の調度品も金銀取り交ぜてあつらえられるなど、「黄金の演出」が行われました。
その後、行幸御殿等は移築され、天守閣、本丸御殿等は焼失しましたが、二の丸御殿は今も往時の風情を伝えています。


二の丸御殿には、寛永期の障壁画を含む約3600面の障壁画が残されています。
昭和57年(1982)には、そのうち1016面が国の重要文化財に指定されました。
寛永期の障壁画は、後水尾天皇の行幸のために大改築された際、幕府御用絵師であった狩野派の若き棟梁・狩野探幽が一門の総力を挙げて制作したものです。

二の丸御殿の廊下は、人が歩くと鳥の鳴き声のような音がなることから、「鶯張り」と呼ばれています。
音は図の通り、目かすがいと釘のこすれによって生じています。




国宝・二の丸御殿の最も奥、白書院四の間。
天皇様がお休みになられたお部屋です。

二の丸庭園です。行幸御殿のあった付近から北方の庭池を見通して黒書院の南面を見る。
そうして265年間続いた江戸幕府もあの出来事が訪れます。

慶応3年(1867)には最後の将軍十五代慶喜公が二の丸御殿で「大政奉還」の意思を表明されたことは日本史上あまりにも有名です。
慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府十五代将軍徳川慶喜公が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌15日に朝廷が許可し、江戸幕府の幕は降ろされました。これを日本史上、大政奉還と呼んでいます。
徳川家康が朝廷から征夷大将軍を宣下されて以来、政治の大権を天皇から徳川家が預かる形で、日本の統治者として君臨してきましたが、幕末、薩摩藩と長州藩が同盟を結んで討幕運動を始め、土佐藩からは慶喜に大政奉還の意見書が提出されました。

10月13日、二条城二の丸御殿大広間に、在京していた40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、大政奉還が成立したことで、一旦は討幕の動きは弱まりましたが、やがて江戸無血開城へと至りました。
二の丸御殿、二の丸庭園、唐門など、約400年の時を経た今も絢爛たる桃山文化の遺構を見ることができます。

二条城は徳川幕府の始まりと終わりを見届けてきたのです。
近代国家への歩みが二条城から始まったとも言えます。
明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、明治17年(1884)に皇室の「二条離宮」へ変遷した。
その後、昭和14年(1939)二条離宮は京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称。
平成6年(1994)、ユネスコ世界遺産に登録された元離宮二条城は、徳川家の栄枯盛衰と日本の長い歴史を見つめてきた貴重な歴史遺産と言えます。
散る桜 残る桜も 散る桜 良寛


