1955年、ディズニー映画「わんわん物語」日本語版制作の時、三木鶏郎は、オリジナルで「ララルー」「ベラ・ノッテ」「シャム猫の歌」等の7曲を歌ったペギー・リーの吹き替えをナンシー梅木にオファーした。戦後、進駐軍のキャンプでジャズを歌い、当時人気のジャズ・バンドのステージでも活躍していた彼女は、アメリカのオリジナルものが得意で歌唱力も音楽的センスも抜群であった。鶏郎は、彼女ならきっと出来ると確信していた。
ナンシー梅木のために三木鶏郎が初めて書いた作品が、49年発表の「泣きたいような」だった。原曲は、ショパンのノクターン<夜想曲第2番変ホ長調(作品9の2)>で、鶏郎は歌詞をつけてスローバラードにした。クラシックの旋律に日本語の歌詞を乗せて歌うのは大変難しい試みだったが、彼女のバラードに対する感性は素晴らしく、またそのハスキーヴォイスが歌にぴったり寄り添った。
鶏郎は彼女を放送にも呼び、49年7月NHK『日曜娯楽版』中の「冗談音楽」冗談ヒットメドレーのコーナーで「泣きたいような」を紹介した。以後、彼女は時々市ケ谷のトリ小屋を訪れるようになり、三木鶏郎作品をプライベート録音する等、交流を深めた。
55年7月18日、「わんわん物語」でのナンシー梅木の歌の吹き替え収録が終了した。鶏郎の思惑通り、彼女の歌は完璧だった。
その約一週間後、彼女は渡米し、映画、舞台に出演。三年後にはアカデミー賞を受賞する大スターになった。
ナンシー梅木は昭和4年(1929)5月8日小樽市の生まれで本名は梅木美代志。
太平洋戦争後、兄が進駐軍の通訳をしていたことから米軍クラブで歌うようになる。昭和23年上京し、角田孝&シックスのボーカルとしてデビュー、日本初の本格ジャズ歌手として米軍キャンプやラジオなどで活躍。25年ビクターからレコードデビュー。ハスキーボイスで人気を集め、26〜28年「スイングジャーナル」誌の人気投票で女性ボーカリスト部門の第1位を獲得した。30年渡米して音楽の勉強を開始。アーサー・ゴッドフリーの人気オーディション番組「アーサー・ゴッドフリー・ショー」に出演。着物姿で歌い優勝したことがきっかけでワーナーブラザーズにスカウトされる。32年初めて出演したマーロン・ブランド主演の映画「サヨナラ」で、米国軍人と恋に落ち心中する日本人女性を好演しアカデミー助演女優賞を受賞、東洋人初のオスカーを獲得した。

33年からブロードウェイミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」に主演、公演回数が600回に及ぶヒット作になりトニー賞候補にもなった。あのロジャース、ハマースタイン作です。
34年「エド・サリバン・ショー」に出演。

44〜47年テレビドラマ「エディのすてきなパパ」にお手伝い役としてレギュラー出演。
他の出演作品に映画「ゲイシャ・ガール」「嬉し泣き」「戦略泥棒作戦」などがある。この間、私生活では33年米国人テレビディレクターのフレドリック・オピーと結婚したが、離婚。43年ドキュメンタリー監督のランドール・フッドと再婚したが、51年死別した。晩年は表舞台に姿を見せず、息子夫婦が暮らすミズーリ州で過ごした。
受賞:アカデミー賞(助演女優賞 第30回)〔昭和32年〕「サヨナラ」
日本人でアカデミー演技賞を獲得したの俳優は彼女一人だけです。

没年:平成19年 8月28日(2007)
