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地上の平和

当主のひとりごと (BLOG) 2025.12.20

1955年、ディズニー映画「わんわん物語」日本語版制作の時、三木鶏郎は、オリジナルで「ララルー」「ベラ・ノッテ」「シャム猫の歌」等の7曲を歌ったペギー・リーの吹き替えをナンシー梅木にオファーした。戦後、進駐軍のキャンプでジャズを歌い、当時人気のジャズ・バンドのステージでも活躍していた彼女は、アメリカのオリジナルものが得意で歌唱力も音楽的センスも抜群であった。鶏郎は、彼女ならきっと出来ると確信していた。

ナンシー梅木のために三木鶏郎が初めて書いた作品が、49年発表の「泣きたいような」だった。原曲は、ショパンのノクターン<夜想曲第2番変ホ長調(作品9の2)>で、鶏郎は歌詞をつけてスローバラードにした。クラシックの旋律に日本語の歌詞を乗せて歌うのは大変難しい試みだったが、彼女のバラードに対する感性は素晴らしく、またそのハスキーヴォイスが歌にぴったり寄り添った。
鶏郎は彼女を放送にも呼び、49年7月NHK『日曜娯楽版』中の「冗談音楽」冗談ヒットメドレーのコーナーで「泣きたいような」を紹介した。以後、彼女は時々市ケ谷のトリ小屋を訪れるようになり、三木鶏郎作品をプライベート録音する等、交流を深めた。

ウォルト・ディズニーが長編アニメーション映画の日本語版を作った最初の作品は「ダンボ」だった。
この制作にあたり、三木鶏郎は歌詞と歌・コーラスの音楽監督を依頼された。元来ディズニーファンの鶏郎は喜んで引き受けたが、オリジナル版の試写を見て愕然とした。歌もコーラスもその音楽的センスがあまりにも日本のそれとかけ離れ、自分ではとても手に負えないと思ったのだ。
間もなく本国からオーケストラ・スコアとレコードが届き、鶏郎は苦心の末、歌詞はなんとか音階に嵌めた。しかし歌とコーラスの方はいくら猛練習してもアチラの様にはいかない。この時、コーラスに参加したのが永六輔、荻須照之、中川雄策ら雑唱団であった。何度録音しても鶏郎は気に入らなかったが、オリジナルを知らない人が聴くと面白いと云われ、製作者からOKが出た。この録音がハリウッドに送られ編集され、54年3月、日本封切りとなり大ヒットした。何より喜んだのが子供達であった。そしてこの成功により、ディズニーは全作品の日本語版制作に踏み切ることになった。
当時、ディズニー・プロから来日していた技術部長で外国語版制作のベテラン、ジョン・カッティングが次の「わんわん物語」(56年初公開)も三木鶏郎を再指名し、日本語版監督、音楽監督、作詞を任せた。以後、「バンビ」(57年公開)、「白雪姫」(58年公開)、「ピノキオ」(59年公開)まで、全5作品でカッティング総指揮のもと、三木鶏郎が日本語版監督を務めることになった。

 

 

 

私の若い頃、なんとか滑り込みでこのダヴィング版を見られた。もちリバイバルですが。

録音も悪かったが、その後の別日本語版は俳優でも歌手でもない声優さんがやってるので質がイマイチです。

私の見た時代にはレコードももちろんビデオも無く、歌詞も映画館で覚えるしか術もなく、必死でした💦

♪ あいつは野良犬 ヤクザでしょうがない

あいつは雑種だが いいところもあるんだ

 

 

ふらふらとふらつく あちらこちらに

浮気なあいつ 噂の種まくあいつは 泥棒!

人の心を 盗んでいくけど

ちょっといいところもあるんだ

ちょっといいところもあるんだ

いいところも あるんだ ♪

 

英語の”Tramp”には「浮浪者」や「売春婦」といった意味もあり、周囲からは名前を変えるように多くの反対意見が出たがウォルトは自説を曲げなかった。

 

55年7月18日、「わんわん物語」でのナンシー梅木の歌の吹き替え収録が終了した。鶏郎の思惑通り、彼女の歌は完璧だった。
その約一週間後、彼女は渡米し、映画、舞台に出演。三年後にはアカデミー賞を受賞する大スターになった。

日本語音声制作

《1956年公開版》

総指揮         ジョン・A・カッティング

製作・台本       田村幸彦

監督・音楽監督・作詞  三木鶏郎

編集          上田忠雄

 

役名           原語版声優   1956年公開版

レディ         バーバラ・ルディ   宝田薫
ノラ公        ラリー・ロバーツ    小林桂樹
ダーリング ・ディア  ペギー・リー     里見京子
シーとアム(シャム猫)ペギー・リー     ナンシー梅木
ペッグ                                 ペギー・リー                   北原文江

ジム・ディア     リー・ミラー      三木鶏郎
野良犬収容所員    リー・ミラー     浜口庫之助
セーラおばさん    ヴェルナ・フェルトン 堀越節子
ジョック       台詞:ビル・トンプソン三津田健
歌:スターリン・ホロウエイ
トラスティ      ビル・ボーコム    鈴々舎馬風
トニー        ジョージ・ギボット  中村哲
ジョー        ビル・トンプソン   市村俊幸
ブルドッグ      ビル・トンプソン   古今亭今輔
ダクシー       ビル・トンプソン   逗子とんぼ
警察官        ビル・トンプソン   千葉信男
ボリス        アラン・リード    大平透
タフィー       ダラス・マッケノン  千葉信男
ペドロ        ダラス・マッケノン  永六輔
ビーバー       スタン・フレバーグ  坊屋三郎

 

 

 

 

ナンシー梅木は昭和4年(1929)5月8日小樽市の生まれで本名は梅木美代志。太平洋戦争後、兄が進駐軍の通訳をしていたことから米軍クラブで歌うようになる。昭和23年上京し、角田孝&シックスのボーカルとしてデビュー、日本初の本格ジャズ歌手として米軍キャンプやラジオなどで活躍。25年ビクターからレコードデビュー。ハスキーボイスで人気を集め、26〜28年「スイングジャーナル」誌の人気投票で女性ボーカリスト部門の第1位を獲得した。30年渡米して音楽の勉強を開始。アーサー・ゴッドフリーの人気オーディション番組「アーサー・ゴッドフリー・ショー」に出演。着物姿で歌い優勝したことがきっかけでワーナーブラザーズにスカウトされる。32年初めて出演したマーロン・ブランド主演の映画「サヨナラ」で、米国軍人と恋に落ち心中する日本人女性を好演しアカデミー助演女優賞を受賞、東洋人初のオスカーを獲得した。33年からブロードウェイミュージカル「フラワー・ドラム・ソング」に主演、公演回数が600回に及ぶヒット作になりトニー賞候補にもなった。あのロジャース、ハマースタイン作です。
34年「エド・サリバン・ショー」に出演。
44〜47年テレビドラマ「エディのすてきなパパ」にお手伝い役としてレギュラー出演。
他の出演作品に映画「ゲイシャ・ガール」「嬉し泣き」「戦略泥棒作戦」などがある。この間、私生活では33年米国人テレビディレクターのフレドリック・オピーと結婚したが、離婚。43年ドキュメンタリー監督のランドール・フッドと再婚したが、51年死別した。晩年は表舞台に姿を見せず、息子夫婦が暮らすミズーリ州で過ごした。
受賞:アカデミー賞(助演女優賞 第30回)〔昭和32年〕「サヨナラ」アカデミー演技賞を獲得した日本人俳優は未だ唯一彼女だけです。
没年:平成19年 8月28日(2007)

 

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