堀川通を京都駅方面へ下って行く途中、西本願寺の真ん中あたりに信号があって停められることがあります。

流石、本願寺さん、門徒はんが多いので堀川通を渡りやすくするためにこの信号はあるのかと思う割に歩行者はいない。
元々は堀川通も境内だったのかと思わせるように寺の向い側に立派な門がある。
交差点名は「堀川総門」つまりこの門は「総門」。

本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で,西本願寺と称し,総門は外構えの立派な門で本柱2本、控柱2本からなる城門です。
江戸後期に建てられた高麗門で、南北に走る堀川通と東西に走る正面通が交差する場所(堀川通の東の歩道の上)にある。
総門から東に向かって伸びる路は「正面通」。

西陣からいうと四条より下はずいぶん遠い地に感じる。
伏見なんぞは市内と思えないほど。
この通が西本願寺の正面に繋がっているんだ・・・・
と思っていました。
この辺りの正面通は西行き一方通行です。

西本願寺から東へ進むと、やはり本願寺町みたいな感じは否めません。
渉成園という東本願寺の飛地境内地があり、この地は200m四方の文人趣味溢れる庭園で、源氏物語のモデルとも言われる源融の六條河原院の旧蹟とも言われます。周囲を枳殻(からたち)の生垣で囲ってあったことから別名・枳殻邸とも呼ばれます。ここで正面通は途切れますが、東本願寺まで通りは続きまた途切れます。東本願寺からまた通りを東に進みます。

鴨川に架かる正面橋。

最東端部だろう豊国神社の参道にあたる大和大路から本町通までの間およそ100mは、歩道と中央分離帯の整備された広い通りとなっている。ただし車通りはかなり少ない。

この広い路の東の突き当たりは豊国神社石段です。


ちょうど「お火焚き」の神事の最中でした。

現在の正面通を歩いても、判然としません。
そこで古地図を見ると、正面通の由来が一目瞭然です。
18世紀に刊行された『京大絵図』を見てみましょう。

『京大絵図』で正面通の東を見ると、そこには方広寺の大仏殿があります。正面通の正面とは、大仏殿に鎮座していた大仏を指し示していたのです。
現在「正面通」は方広寺前の大和大路から島原まで東西を横切っています。
元々は、秀吉が建造した方広寺大仏殿と、大阪より呼び寄せた本願寺(現在の西本願寺)を一直線に結ぶ1本の通りだったようです。

豊臣秀吉が方広寺を建立したのは、天正14年(1586)。
天下統一した秀吉は自らの威信を世に知らしめるため、京に東大寺の大仏よりも巨大な大仏の建立を思い立ちます。
そうして文禄4年(1595)、高さ約49m、南北約88m、東西約54mという巨大な大仏殿と、東大寺の大仏よりも4m高い像高約19mの大仏が完成したのでした。
その大仏殿の参道として整備されたのが正面通で、通りからは大仏殿から顔をのぞかせる大仏の姿がよく見えたようです。
『都名所図会』に描かれた方広寺大仏殿と大仏
京の街は秀吉によって、良くも悪くも大きく変化しました。
五条通もそうですし、家の間口で税を徴収したので町家は「うなぎの寝所」。「聚楽第」や御所に「京都新城」等。ほとんどが現存しません。
「方広寺」という寺号は江戸中期以降に自然発生的に生じたもので、文献には見られないし、大仏を発願した秀吉も命名していない。
当時は単に大仏(殿)、もしくは新大仏(殿)・京大仏(殿)・東山大仏(殿)・京東大仏(殿)・洛東大仏(殿)などと呼称されていた
俗に言う方広寺鐘銘事件は、豊臣秀頼による大仏殿再建に際して同寺に納める梵鐘の銘文を巡り生じた、大阪の陣の契機の一つとなった事件である。


この写真は文字を加工したものでなく、寺側の配慮で判りやすくしたものです。
しかし日本一巨大な大仏は、造立の翌年、地震によって崩壊してしまいます。
秀吉の死後、子の秀頼が大仏の再建に乗り出したものの、慶長7年(1602)には失火により造立途中の大仏が全焼。それでも秀頼はあきらめず、慶長19年(1614)、再び日本一巨大な大仏を完成させました。
元和元年(1615)、豊臣家は大坂の陣で徳川家康によって滅ぼされますが、それでも大仏は壊されることなく、同地で威容を誇りました。
しかし寛文2年(1662)、大仏はまたしても地震によって崩壊。再びつくり直されたが、寛政10年(1798)、今度は落雷によって焼失してしまいます。
天保年間(1830~44)には大仏殿に大仏がないのはしのびないとして、尾張国の有志らによって高さ2mの半身大仏が建立されましたが、それも昭和48年(1973)に焼失してその姿を消しました。

その後は大仏も大仏殿も再建されることなく、現在にいたっています。



こうして正面通の由来となった大仏と大仏殿の姿をいまは見られませんが、方広寺には大坂の陣を引き起こす要因となった「国家安康」と刻まれた梵鐘と、大仏殿に使用されていた礎石が保存されており、かすかによすがを見いだせます。



徳川家康は将軍在位わずか2年で、将軍職を三男の秀忠に譲り、大御所として政治を後見します。
これは、江戸幕府の将軍職は徳川氏の世襲であることを示すとともに、朝廷や大名に天下を修める武家の棟梁は徳川氏であることを認めさせることでした。
しかし、豊臣家の権力と名声は依然健在でした。
それは、豊臣家が「摂関家」という高い家格を有しており、公武に君臨できる唯一の家柄と、朝廷や公家から認知されていたからです。
徳川幕府安泰のため大阪の陣で豊臣秀頼を滅ぼした家康。
次に狙いを定めたのが、京にある秀吉の墓と秀吉を祀る豊国神社を破壊し、人々の記憶から秀吉を消し去ることでした。
それが、秀吉を祀る豊国神社とその墓である豊国廟の廃止でした。
元和元年(1615)、家康の意向により、勅許を得て「豊臣乃大明神」の神号が剥奪されます。ここにおいて、秀吉は神ではなくなり、その霊は方広寺大仏殿裏側に建てられた五輪塔に遷されました。
秀吉の遺体そのものは、阿弥陀ヶ嶽山頂の豊国廟に残されたまま放置されたのです。
しかし、豊国神社と豊国廟の破壊は、秀吉の正妻・北政所おねの嘆願により見送られることになりました。高台院に住まう北政所は、まだまだ大きな影響力を有しており、家康とはいえ無視することはできなかったのです。豊国神社も豊国廟も今後一切手を付けずに、朽ちるに任せることで、合意に至りました。家康にとって、これが最大限の妥協であったことと思われます。
こうして、秀吉の痕跡は一応、京都から消し去られました。
そして、その後、秀吉の神格化を快く思わない家康が正面通の間に東本願寺や枳殻邸を配置し、現在のような断続的な道路になったのです。
